かなり前に製造中止になったKOKUYOさんの万年筆専用ノート(手帳サイズ/ノ-CH2U)のストックが、あと1冊になってしまいました。
KOKUYOさんの 書翰箋(ヒ-211)は、万年筆用のメモ帳としては、自分の中では最高クラス。英語の時は横書きで使う。お値段も優しく。
インクは常にブルーブラック。
【2006.6 Lapita No.126】 2008年に休刊になった雑誌。大切に保管していたのですが、紙が劣化して黄ばんできましたのでデジタル保存。
『お嫁に行く心配がないから死者は実名報道』
「ニュース三面鏡」を書いた記者を出せ、と言ったら、その記者は席を外している、用件があればわたしがきく、ということで、わたしはその記者に「数々の疑問」をぶちまけたのである。
電話口の社会部記者は「朝日の報道にあやまりはない」の一点ばり。サンゴ礁のねつ造記事があり、最近の朝日は誤報の訂正謝罪にいとまのないありさま。訂正謝罪の常設コラムを設定したら・・・と提案したくなるほどだが。一読者に対してはゴーマン無礼だということもまた、定評のあるところである。
「なぜ加害者は匿名で、被害者を写真入りで実名報道するのか。実名報道で、被害者の人格まであげつらうのは許せない」
「性犯暴力で生存している場合は匿名、死んだ場合は実名報道というのが朝日の基準になっている」
「その理由は?」
「死者を匿名にしても利益がないからだ」
「もうお嫁にいく心配がないということか」
「ま、そういうことだ」
「朝日では婦女暴行はむごい犯罪ではないということになっているのか。この事件はそもそも強姦から始まって、結果として殺してしまった事件ではないか。強姦されたことによって人生を狂わせた女はいっぱいいる。強姦は女にとって死にひとしいむごい犯罪だと女は思っている」ガンガンまくしたてると、記者はトーンを落として「そういえば、婦女暴行もやはり、むごいですよね」とのたまった。死んでしまったら、匿名にしても利益がない、という感覚には、心底おどろいた。死者にも名誉もあれば、人権もある。遺族は生きているのである。遺族の心情を考えれば、死者をペンの力でふみにじることは許されない。この本では、朝日新聞さん一社を攻撃しているわけではなく、メディア全体に対して疑問を呈しています。1990年の本なので、現在の朝日新聞さんの実名報道基準は変わっているのかもしれませんし、変わっていないのかもしれません。著者は、門野晴子、中山千夏・丸山友岐子・日方ヒロコさん。女性の人権や性的暴行事件について女性目線で書かれています。
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初報時に、日刊新聞であからさま非行少女キャンペーンを張ったのは、わたしの知る限り朝日新聞だけである。
『マスコミ・ナチズム』
一つ目の記事が二つ目の記事を補い、二つ目の記事が三つ目の記事を補い、三つ目の・・・記事は互いの相乗効果が重なって、なお残酷な暴力をふるい続ける。
そして不気味に一致していることはまだある。表面的には売らんかな主義だが、その根底には世の体制に合わない者は排除せよ、排除されても仕方がないというマスコミの正義の味方を装った犯罪性と傲慢性だ。さらにマスコミを構成するひとりひとりの退廃した貧困で無恥な意識である。
世の中から、自分たち、もっというならば自分たちの代表されるような選良な人々以外の追放し、抹殺するマスコミはナチスを思い起こさせる。昨今のフェイクニュース・偏向報道にナチズム的要素はないでしょうか。私はこの記述を読み、森友問題報道が頭に浮かびました。
『ニュースの天才』(ニュースのてんさい、原題: Shattered Glass)は、2003年のアメリカ映画。ビリー・レイ監督、ヘイデン・クリステンセン主演作品。1998年に起きたアメリカの権威ある政治雑誌『ニュー・リパブリック』の記者スティーブン・グラスによる記事の捏造事件を描く。(wikipedia)事件後、更新せずに解約しました。映画は見ました。 歴史学者先生の「神の手」みたいな話ですが、
1件の悲劇がある。その背景には29件のトラブル、300件の「ヒヤリ」「ハッ」とする体験がある。処方箋で治せるステージで潰しておかないとですね。危機管理は「イマジネーション」の世界です。
安倍総理や忖度関係の方達が、「孤高のゴミ拾い」のような忖度・パフォーマンスなしの美徳に積極的に取り組んで下さることを願います。美徳(excellence)は、訓練と習慣の賜物である。
我々は、あらかじめの美徳が具わっていたり、卓越した能力があるからこそ正しい行動ができるのではなく、正しい行動をするからこそ、美徳や卓越した能力が得られるのである。
我々が何であるかは、我々が繰り返し何を行ったかによって決まるのである。
それゆえ、美徳は行いではなく、習慣なのである。
~アリストテレス~
世の中の混迷困窮が続くと、人の攻撃の矛先は外へ向かわず、内に向いがちだ。
異物を排除しようと法律や規則が強化されつつある。
気が付くと我々は、法律や規則に強く依存しており、自分で何も決めず考えなくなっている。
杓子定規な言い分や愚にもつかない大義名分に縛られ、身動きがとれなくなっている。
我々の先人は、問題解決の時、知恵を使ってきた。
それが難問であればあるほど、予めの決まり事や約束事に捕われず、発想豊かに知恵を使ってきたのだ。
嘘や理屈に合わぬ事、時には非合法な事も必要だ。
この世界を本当に動かしているのは、法律でも規則でも無い、そんな人間の優れた叡智なのだ。
人は善く生きれば良い、善く生きる事がすべてだ。
~京の散歩道より~
知人がプレゼントしてくれた原稿用紙。 かなり前に製造中止になったKOKUYOさんの万年筆専用ノート(手帳サイズ/ノ-CH2U)のストックが、あと1冊になってしまいました。 KOKUYOさんの 書翰箋(ヒ-211)は、万年筆用のメモ帳としては、自分の中では最高クラ...