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Monday, December 19, 2016

オシャレやん(Cool)【師走19日】孤高の登拝140度目(Going-to-the-God Trail)

遅くまで飲み会をしていた人達と入れ違いに、西寒多神社に向かい出立。
丑三つ時過ぎの西寒多神社は、静寂に包まれ人によっては恐い空間なのかもしれないが、登拝人にとっては心地よく。
半月よりちょっと大きめの月でも十分に明るく、月明りのある夜は、西寒多山の住人達は静かなのだ。
登拝道には、人香が残っていた。

週末、いつもより多めの登山者が通ったのではないかな。

登りも下りも8合目展望所からの下界は美しく、真上から撮影する航空写真より斜め45度の方が良い。
冬至が近づきなかなか明るくならず、1時間15分の奥宮入口道の清掃を終えてもまだ暗く、その間ライトをくわえたままなので顎が痛い。
 暗い中掃き清めるスキルは、上達したのではないかな。
奥宮は月明りに照らされ、ライトを消し月明りだけで掃き清める。

月明りで山の上にある神様の庭を、北斗七星を眺めながら独り掃き清めるなんて・・・

オシャレやん(Cool)

登山者が来たらビックリ(気味悪く)すると思うけど。

奥宮の清掃を終える頃、やっと写真撮影ができる明るさになった。
They are all perfect.
入口道を掃き清めることで奥宮に「氣」が流れるようになる。

標高607mとはいえ山の上にある奥宮は寒く、しかしながら、奥宮を囲む木々や拝殿、灯篭、狛犬、落ち葉一枚からは温かみを感じる。

輝石と奇跡【霜月29日】孤高の登拝137度目(Going-to-the-God Trail)
西寒多の「輝石」である石嶺殿。

写真では表現できていないが、眩しいほどに輝くさまに圧倒され言葉を失う。

この感動は、見た人にしかわからない。

古代(約2,000年前)よりこの地に住んでいた大分の民も、きっとこの磐座(石嶺殿)の輝きを見つめながら、何かしらお願い事をしたのではないかしら。
小生の拙い筆舌でも神々しさを伝えることはできず。

シーンという音だけが、鼓膜を刺激し脳にアクセスしてくるのだ。

独り静かに西寒多の神の前に立つ。

オシャレやん(Cool)
ヨセミテ国立公園の「Firefall(火の滝)」

西寒多の「輝石」も上手な人が撮影すれば、もっと素晴らしい写真になり、皆様にお伝えすることができるのだが、如何せん小生のパカパカ携帯のカメラでは・・・。

大分のプロ・アマのカメラマンさん、お願いします!

今日現在、7:15から数分間だけの輝き(冬季のみ)。
気分よく下界へ戻る。

途中、小さい山の住人達が走りまわる音が何度か聞こえた。
 尾根に出ると暖かく、谷面になると穏やかなひんやりが心地良く。
西寒多神社で清掃するTさんと話をする。

小生が、奥宮の清掃を続けられているのは、Tさんが毎朝されている姿を見てのこと。

そして、それが日々のゴミ拾いにも繋がり、20,000kmまで続けることができている。

その事について感謝の気持ちを伝えた。

「Tさんの真似事をして・・・」と言うと、Tさんはちょっと照れた笑顔で「私も真似事ですよ」と。

Tさんが、現在恐らく最も西寒多神社に詳しい方であり、最後の口伝師ではなかろうか。

紙に記録されていないことについて、どなたかがTさんにお聞きして記録しておく必要があるのではないかなと思っている。

朝の参拝をルーチンにされている日記名「西寒多マダムズ(3名)」にもお会いした。

変わらずお元気そうで何より。

良い一週間になりそうだ。

素晴らしい一週間にしたい。

Saturday, April 2, 2016

オムニバス・ライフ~大分市・西寒多神社・本宮山編~

昨晩秋くらいから、神社や神社にまつわるミステリーな件、ゴミ拾いの件について多くの方達からメッセージを頂戴するようになりました。ありがとうございます。
自分は特別な信仰をもたず、特別な能力も持たず、ボランティアではない「孤高のゴミ拾い人」であります。

なんでも心霊に結び付けて考える人もいれば、そうでない人もいます。

真っ暗な山の中を独りで奥宮に向って登拝しているとイロイロとあるでしょう。TVとかで心霊スポットに行き、暗闇で音がすると「出たぁ!」となるでしょ。同伴している霊能者と言われる人までもが一緒になって。

山では風が吹けば音がしますし、夜に活動する動物もいます。

強風の暗闇では、木々がこすれ合う音が人の話し声に聞こえることもありますし、時に頭上から怒号を浴びせてくることもあります。

先日の登拝の時、通過した3秒後に木が倒れ谷下に落ちていきました。西寒多山(本宮山)登拝道と周辺では朽ちた倒木をよく見かけますが、そのほとんどが夜に倒れているのではないかと。登拝中、山のあちこちで木が倒れる音がするのですが、明るくなってからは聞こえず、目撃したことは一度もないです。

「恐くないのか?」と沢山の人に聞かれます。

恐い人にとっては、電灯がついている西寒多神社に独りで参ることも恐いのではないでしょうか?

そこから登拝道に入り、漆黒の沼(池)の横を通り上がっていくのです。

いちいち「出たぁ!」と騒ぐ人が、強風の真っ暗な山に入ると、気絶してしまうかもしれません。

何事も気持ち次第です。神体山に入っているわけですから、これ以上安心な場所はないと思っているのですが。

西寒多神社で「今から奥宮に向います。後程。」とご挨拶してから上がります。ここで大切なのは、「本宮山→西寒多山」「登山道→登拝道」に変換してもらうことをお願いしなければなりません。大分市の本宮山は、パラレルワールドになっているのです。

それで恐くなくなるのですよ。本宮山・登山道なら自分も恐いかもしれません。ただ、暗いので足元にくれぐれも注意なのですが、頭上にも要注意です。

登拝を始めてからみるようになった夢があるのです。

一つ目は、どこか知らない神社に登拝する夢。「いつかそこに行くことがあるのかな。楽しみにしておこう」と思っています。

二つ目は、西寒多神社参道の鳥居をくぐる時、端を歩いていると「真ん中を歩かれよ」という声がしたという夢。それ以来、真ん中を歩いています。

三つめは、登拝道を歩いている自分を遠くからのカメラ目線で見ている夢。その角度は、登拝中に「視線を感じるなぁ」と思っていた方向なのです。自分が自分を見ていたんですね・・・きっと。

真っ暗闇の山を歩いていると、感覚は研ぎ澄まされていくのではないかなと。山の住人達が近くにいると、鳥肌センサーが働くのです。今のところ山の住人達とはうまくやっています。鹿も自分からは逃げず、しばらく見つめあってから「通るよ」と心の中で話しかけるとゆっくり去っていきます。西寒多山に人間が入ってくると、山の住人達が教えてくれますし。


登拝を始めた理由は、未だによくわかりません。

ゴミを拾い始めて1年くらいたった頃、「今日はゴミを拾わず西寒多神社まで歩いて行ってみよう」と思い立ったのが最初でした。清々しい空間で、「凛」として気持ち良かったですね。時間軸もゆったりと。もうひとつの一宮・柞原神社は、「荘厳」とした感じがします。
それから週6日の通常ゴミ拾い、週1日の西寒多神社参拝(ちょっとゴミ拾い)となりました。

何度か西寒多神社を訪れるうちに、登拝道が気になるようになったのですが、奥宮(9合目)まで6kmと書かれているのを見て、「ちょっとなぁ・・・」と足が向くことはありませんでした。

しかしながら毎度毎度気になるので、「一度行ってみるか」と思ったのが、丁度2年前。

そこから始まった登拝です。
「お百度登拝」

週1回のローテーション崩さずに100回続けることができたら、何かひとつお願いごとをしようと。

1回も崩さずに100回続けることができたのですが、特にお願いすることもなく、100回続けられたことに感謝する気持ちだけでした。

最初は、奥宮社殿と磐座前だけを軽く清掃し、登拝道をゴミ拾いをしながら下界に戻り、ゴミを拾いながら帰宅していたのですが、ある時から奥宮入口道・奥宮全体を清掃するこようになりました。

夏はうっそうと木が生い茂り、枯葉は奥宮の「」の通りを悪くし、薄暗くおどろおどろしい空気を醸し出すようになりました。

「あなたが掃き清められよ」

自分が毎日ゴミを拾っている姿は、西寒多山からよく見えるのです。ゴミを拾って1年(約5,000km)続けられた時、西寒多の神は自分を選び、奥宮に導き、奥宮を清めることを命令ではなく感じさせたのではないでしょうか。

それ以外に、自分が朝2:00過ぎに起き、6km歩いて西寒多神社に向い、更に6km登拝道を上がり、1,5-3.0時間かけて奥宮を掃き清め、6kmゴミを拾いながら下界に戻り、そして6kmゴミを拾いながら帰宅をする理由が見当たらないのです。元々、自分はそういう事をするタイプの人間ではありませんでした。

「余計なことをして氏子さんに叱られかも」とも思いましたが、ご理解頂けるのではないかということで、続けさせてもらっています。

盆正月関係なく、天候・体調不良、用事でできない時以外は、毎日15kmのゴミ拾いを続けられているのも、登拝があってのことだと思っています。ゴミ拾いが先に始まったことなのですが、暑い夏、寒い冬も毎日人様の捨てたゴミを15km拾い続けるのは強い心が必要ですので、ボランティア活動としてなら1年が限界だったかもしれません。

今では、「インドの山奥で修行してる僧でもできないぜ」と、アメリカ某所で話題になることもある「孤高のゴミ拾い」です。

夜明けの奥宮は気持ちよく、西寒多の神との会話を楽しみながら清掃させてもらっています。

「人を頼らず、あなた独りで続けなさい」というお言葉を頂戴しました。

人をあてにすると、してくれない時に腹が立つものですが、自分の行動は自分のものです。怒りの感情をもってはゴミを17,000kmも拾い続けることはできません。ポイ捨てゴミは増え続け、憂う気持ちはありますが、それ以外の感情はなくなりました。

大分のマジョリティが選択した道です。

自分は、「絶対的マイノリティ」としての生き方を全うしたいと思っています。


日本の神様は優しくもあり、恐くもあるということは、登拝をしながら感じることはありました。

以前、「西寒多の虎」について書いたことがあります。満月の夜、西寒多山で木々がなぎ倒されていく瞬間を目撃した事のある人は少ないと思います。それは、畏怖です。

「本宮山・磐座に幽霊が出ると聞きましたが・・・」と、以前メッセージをくれた方がいましたが(その後、違う人から数件)、自分には霊感はないので何も見えませんし特別なチカラもありません。逆に磐座前に腰かけていると、あったかい感じがするんですけどね。
ゴミの多い所は、何人もの人間、動物たちが命を落とす場所でもあります。自分が把握しているだけで6人、動物にいたっては数知れず。当然、そこには人が寄り付かなくなり、更にゴミの捨て場となることで強い負の「氣」を発します。

自分はそこのゴミを毎日拾うわけでして、「憑かれるのではないか」と皆さんが心配してくれていました(今はしていませんが)。その点については、恐らく西寒多の神が守護してくれているものだと。それと、ゴミ拾い道中に沢山のお墓の前を通過しゴミを拾っていることで、そこにお眠りのこの地のご先祖様方が、自分に憑こうとしたものに「その人は違うぞ!」と声掛けしてくれているのではないかと思っています。お墓の前を通過する時、あったかい感じがするんです。

ゴミを拾い始めた頃は、見ず知らずの顔の濃いヤツがゴミ袋を持ってウロウロしているので警戒されることも多かったのですが、今は「あなたいい所に逝くわ」と言って下さる方もいますし、車中から手を合わせて下さる方もいます。人生の大先輩方が、自分ごときに丁寧に礼儀正しく頭を下げてくださいます。

日々感謝です。


自分は、神道は宗教だとは思っておらず、日本人としてマニュアルのようなものだと。

一般的に何をもってパワースポットというのかはわかりませんが、ゴミを17,000km以上拾い、107度も登拝を続けるということは、凄いパワーだと思うのですが、どうでしょうか?

皆さんの周囲にも自分の気持ちの持ち方ひとつでパワースポットになる場所はあるのではないでしょうか。

大分県・大分市には、素晴らしいパワースポットがまだまだ存在すると。
同じような内容のメッセージを頂戴するので、改めて思いつくことをそのまま書いてみました。以前の投稿内容と重複していることについては、お許し下さいませ。

万年筆のノート術

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