Friday, September 22, 2017

【2017.9.22】ブログ休止のお知らせ

突然ではありますが、『孤高歩記』の投稿を休止することにしました。

ポイ捨てゴミについての私見を公開で記すことについては、「もういいかな(enough)」と考えています。ポイ捨てゴミについては、ネガティブな事案なので内容もそれっぽくなってしまい、それについては疲労感と云いますか、書きながら自分の無力さと器の小ささを痛感し自己嫌悪になることが多くなってきました。

私のような若輩がゴミ拾いや登拝をしていると、何かと誤解されることも多く、「そうではないのですよ」ということを知って頂くという意図もありました。その誤解は、今年のはじめに大分合同新聞さんに取材をして頂き、ある程度理解していただくようになりました。年輩の方がこのブログを読むことは稀で、やはり大分においては、大分合同新聞さんの影響は大きく、昨日も「貴方、新聞の方よね(載っていた方よね)」と声を掛けて頂きました。「貴方の記事を切り抜いて貼ってるのよ」と云っ下さる方も何人か。自分の家族でさえ保管していないのに。

大分合同新聞社と書いて頂いた記者さんには感謝です。

今までの投稿を非公開にしようかと思ったのですが、いくつかセレクトして残しておきます。写真と積算距離数だけをSNSで公開することにしようか・・・どうしようか。

孤高シリーズで書き溜めたもの。
ブログ関係なく『孤高のゴミ拾い』『孤高の登拝』は変わらず続けていきますので、今後共宜しくお願い致します。
甲斐猛則
http://oitseaden.tumblr.com/post/165602642052/とりあえず今日からこちらで個人的なchit-chatを自分は誤字脱字

Saturday, May 27, 2017

西寒多神社: 豊臣秀吉関連古文書

豊臣秀吉直書状(直書)写

天皇の意を受けて、関白秀吉が大友氏と島津氏との和睦を勧告したもの。

日付、宛名はないが、これとほとんど本文が同じ文書が天正13年(1585)10月2日付けで秀吉から島津氏宛に出されている。

本文書は同日付で秀吉から大友宛に出された「惣無事令」の内容で、これを受けて大友宗麟が大坂城へ登城することになった。
豊臣秀吉書状(朱印状)案

敵方へ通じる豊後国侍の動きをうけ、秀吉が大友義統と仙石・長曾我部両氏に対して筑後への出兵をすぐにやめ、府内に軍勢を入れて上方の軍勢が来るまで少しも動かず守りを固めるように命じたもの。

あわせて、右馬頭(うまのかみ)こと毛利輝元に対しても同様に指示したことや、さらに先発隊として備前衆・淡路・阿波の国侍を派遣したことを伝えている。
豊臣秀吉書状写

3月1日の自らの出陣を伝え、今しばらくはむやみに動くことなく、城の守りを堅固にするよう指示した秀吉の書状。あわせて秘蔵の平釜の贈呈に対して感謝の意を伝えるとともに、その返却を伝えている。

日付、宛名はないが、秀吉の九州出陣及び将軍義輝から宗麟へ与えられた「平釜」の記事があることから、天正15年(1587)2月に宗麟宛に出された内容とみられる。

Friday, May 12, 2017

西寒多神社: 後藤碩田

後藤碩田は明治4年10月4日、西寒多神社主典に命じられた。碩田は号で、本名は真守。通称今四郎。碩田自筆の履歴書によると日田県別府表つまり別府支庁で主典を拝命したとなっている。この年の7月に廃藩置県が行われ、大分県などが成立したのだが、実質的に機能し始めたのは初代県知事(参事)森下景端が着任した5年1月以降で、それまでは慶応4年閏4月に発足した日田県がまだ機能していた。

主典は宮司や禰宜に次ぐ職階。後藤は西寒多神社主典を拝命と同時に姓を枚岡に変えた。後藤家は保元の乱の頃までは河内国枚岡神社の神職をしていて枚岡姓だったことから元に戻したのである。このため西寒多神社の保存文書には枚岡真守と記録されている。

後藤は6年に教導職十一級に補され、次いで同年7月に権禰宜に任じられ、同年中に中講義になった。更に13年には大講義に任じられた。

後藤は現在の大分市の乙津の豪商の家に生まれ、日出の帆足万里に漢学を学び、竹田の田能村竹田に師事して詩や画の研鑽に励んだ。更に中津の渡辺重名(重石丸)に国学を学んだ。若い頃から勤王家として活躍し、熊本の宮部鼎蔵や岡藩の小河一敏、更には長州の高杉晋作らと交わった。幕府による長州征討の際、長州藩主の命令を受けて九州諸藩の動静を探って報告し、褒賞を贈られた。後藤が西寒多神社主典に命じられた背景には明治新政府の中心勢力となった長州寄りだったことも影響しているものと見られる。

西寒多神社が国幣中社に列せられたのは、この後藤碩田の功績が大きかったと思われる。

なお、後藤は歴史を初めとする膨大な資料の収集に取り組み、500冊からなる『碩田叢史』をまとめた。その中には『寒多反古(一)(ニ)』があり、神道行政に関する資料や西寒多神社関係資料が含まれている。
碩学、後藤碩田の収集書籍

『碩田叢史』の『寒多反古』(一)(ニ)


『碩田叢史』は西寒多神社の主典や禰宜、教導職を務めたことがあり、碩学で知られる後藤碩田が出筆、あるいは古書を書き写した写本、収集した書籍の総称である。現在、その原本455冊が大分県立図書館に所蔵されている。また東京大学資料編纂所にもその一部の写本54冊が保存されている。

この『碩田叢史』は郷土史、日本史を研究する上で貴重な資料となっている。この中の『寒多反古(一)』『寒多反古(ニ)』は、後藤が西寒多神社の神職をしていた頃に出筆、あるいは保存・収集したと思われる神社、あるいは祭式、神道行政関係文書などをまとめている。

『寒多反古(一)』には第三大区(現在の大分市、由布市を中心とする地域)内の郷社と村社の名称と神官の名前、戸数などを列記したものや里楽規則、後に西寒多神社の権宮司になった城原八幡神社神官日野資計が著わした「祭儀根源」(上之巻)(下之巻)などからなっている。

『寒多反古(ニ)』は宣教師心得(本版本)や説教心得、西寒多神社教導小教院之一件、中教院御設置之場所見込入札、日要新聞、教会大意、天祖皇祖礼拝儀、神官奉務規則、中教院規則などからなっている。

これらの中には「明治六年西寒多神宮御達書」や「明治八、九年西寒多神社諸達」に含まれているものもあるが、当時の宣教使の心得や説教をする上での注意事項、礼拝の儀式などを知ることができる。

Saturday, May 6, 2017

西寒多神社: 災害

西寒多神社は、長い歴史に比較して大きな自然災害に見舞われることは少なかった。山の斜面という地形が幸いしたようだ。

明治15年(1882)8月21日、八幡田神幸所が強風のため倒壊、さらに七瀬川の洪水で消失した。同17年9月4日、本殿修築のため御遷座していた仮殿の屋根が暴風のため破損したため、夜中に神饌所に御遷座した。

同28年(1895)7月24日、八幡田神幸所の仮殿が26年に流失したため郷ノ城に設けていた仮殿が、大雨のため倒壊した。

同35年9月28日、台風で神殿背後の崖が崩れたり樹木が倒れるなどの被害が出た。

同40年2月10日早朝から降り出した雨はのちに雪に変わり、激しさを増した。境内の樹木が倒れるなどの被害で出た。11日も降雪がやまず、朝から予定していた紀元節の式典と遥拝式は雪掻きなどのため遅れた。

同41年8月10日、大雨が降って洪水。神庫と神楽殿の屋根の一部が壊れた。

同42年8月21日、境内の松の巨木が倒れ玉垣など12ヵ所に被害を受けた。

大正5年(1916)3月6日、地震があり建物が大きく揺れたが被害は不明。同8年7月23日、背後の山林に落雷があった。

昭和6年(1931)2月9、10日の両日、大雪が降り、10日朝には6寸(約18センチ)も積もった。9日夕方から境内の樹木が音を立てて折れたり曲がったが、被害はなかったようだ。同11月2日に地震が発生したが被害は生じなかった。

同16年10月1日、朝から大雨となり、禊川(現寒田川)が増水、車寄せ近くの玉垣や石垣が破損し大きな被害が出た。また、藤棚の一部が破損、境内の桜の木が一本倒れた。

同18年7月26日、御神庫の裏の崖が崩落したが幸い無事だった。同9月20日には暴風雨で境内の星差川(現西寒多川)に架かる裏参道の石橋ともう一つの橋が流失。藤棚の下の玉垣の大部分も流れた。また、表参道や萬年橋記念碑背後の石垣が寒田川の決壊で大きな被害を受けた。

同21年(1946)1月27日夕方、老松が大きな音を立てて倒れ、危うく鳥居や手水舎などが壊れるところだったが、わずかに免れて被害を受けずに済んだ

Friday, April 28, 2017

西寒多神社: 年間祭祀

【1月1日】歳旦祭
【2月1-3日】厄除け星祭
【3月15日】祈念大祭
【3月20日】本宮社春の大祭
【4月15日】例大祭
【4月29-5月3日】ふじまつり(講社祭・藤花祭)
【5月3日】大祭(引き続き育木祭)
【5月4日】戦没者慰霊祭
【5月5日】水神祭
【6月30日】大祓
【7月最後の日曜日】夏越祭
【9月23日】作祭
【10月20日】本宮社秋の大祭
【11月23日】新嘗大祭
【12月31日】大祓/除夜祭/古守札焼納祭
【毎月1日】月次祭
*********************************************
昭和7年(1932)発行『国幣中社西寒多神社略記』に記載されている祭祀(特殊神事除く)

【1月1日】歳旦祭(中祭)
【1月3日】元始祭(中祭)
【2月11日】紀元節祭(中祭)
【2月20日】新年祭(大祭)
【3月春分の日】春季皇霊祭遥拝式/繰生社春祭
【3月20日】本宮社祭
【4月自1日-至3日】神幸祭
【4月3日】神武天皇祭遥拝式
【4月6日】奨学祭(小祭)
【4月15日】例祭(大祭)
【4月29日】天長節(中祭)
【5月上旬】講社大祭(藤花祭)
【5月14日】列格記念祭(小祭)
【5月17日】厳島社例祭
【6月30日】大祓式/道饗祭(小祭)
【舊6月晦日】御祓祭(小祭)
【8月25日】天神社例祭
【8月秋分の日】秋季皇霊祭遥拝式/繰生社祭
【10月9日】合併者例祭
【10月17日】神嘗祭遥拝式/伊勢社秋祭
【10月20日】本宮社秋祭
【11月3日】明治節祭(中祭)
【11月22日】鎮魂債(中祭)
【11月25日】新嘗祭(大祭)
【12月25日】大正天皇祭遥拝式/煤祓式
【12月31日】大祓式/道饗祭(小祭)
【舊11月中卯月】卯月祭
【毎月1日】月旦祭(小祭)
【毎月15日】月次祭(小祭)/講社月次祭(小祭)/献詠祭(小祭)

Wednesday, April 26, 2017

西寒多神社: 歴代宮司

物集高世
就任年月日: 明治6年3月14日
退・転任年月日: 明治7年4月7日

田近陽一郎
就任年月日: 明治7年4月9日
退・転任年月日: 明治9年2月8日

湯谷基守
就任年月日: 明治9年3月17日
退・転任年月日: 明治10年12月18日

江藤正澄
就任年月日: 明治10年12月28日
退・転任年月日: 明治11年3月28日

宗六翁
就任年月日: 明治11年3月4日
退・転任年月日: 明治11年12月1日

村井泡
就任年月日: 明治11年12月19日
退・転任年月日: 明治15年6月3日

毛利登
就任年月日: 明治15年9月19日
退・転任年月日: 明治39年8月13日

金子長吾
就任年月日: 明治39年8月13日
退・転任年月日: 明治42年11月19日

遠山正雄
就任年月日: 明治42年12月1日
退・転任年月日: 大正3年4月18日

石上清治
就任年月日: 大正3年4月18日
退・転任年月日: 大正9年10月8日

後藤周治郎
就任年月日: 大正9年11月19日
退・転任年月日: 大正12年9月27日

久松信正
就任年月日: 大正12年9月28日
退・転任年月日: 昭和2年8月13日

長曾我部延男
就任年月日: 昭和2年8月13日
退・転任年月日: 昭和4年3月

松本浩通
就任年月日: 昭和4年3月5日
退・転任年月日: 昭和7年8月23日

上井廣𠀋
就任年月日: 昭和7年8月23日
退・転任年月日: 昭和20年12月8日

河野八百吉
就任年月日: 昭和21年6月24日
退・転任年月日: 昭和29年12月25日

小野新
就任年月日: 昭和29年12月25日
退・転任年月日: 昭和43年2月

村井昌
就任年月日: 昭和43年5月15日
退・転任年月日: 平成5年8月31日

玉井篤
就任年月日: 平成5年9月1日
退・転任年月日: 平成13年3月31日

縣好久
就任年月日: 平成13年4月1日

(写真: 昭和10年代)

西寒多神社: 氏子会

昭和21年(1946)2月に神社制度が廃止されたのに伴い、西寒多神社付属団体の豊後一宮講社を廃止せざるを得なくなった。それにともなって新たに氏子会を作ることになり、同年3月に氏子会規則を定めた。全文26条からなる規則の第2条は「本会は西寒多神社の隆昌を期し西寒多大神の御神徳を発揚顕現すると共に氏子恒例の祭祀神事を行うを以って目的とす」とその目的を定め、第3条で恒例の祭祀神事として例祭(4月15日)、祈念祭(2月20日)、新嘗祭(11月25日)、初卯祭を挙げている。


豊後一宮西寒多神社氏子會規則

第一條 本會ハ西寒多神社氏子ヲ以テ組織シ西寒多神社氏子會と称シ其ノ事務所ヲ西寒多神社々務所ニ置ク

第二條 本會ハ西寒多神社ノ隆昌を期シ西寒多大神ノ御神徳ヲ發揚顕現スルト共ニ氏子恒例ノ祭祀神事ヲ行フヲ以テ目的トス

第三條 本會ノ行フ西寒多神社氏子ノ恒例ノ祭祀神事ハ次ノ如シ

例祭四月十五日 祈念祭二月二十日
新嘗祭十一月二十五日 初卯祭 


第二章

第四條 本會々員ハ従前ノ西寒多神社氏子區域内ナル大分郡稙田村

(以下中略)

第六章 附則

第二十六條 本講社ハ昭和二十一年二月二日神社制度ノ廢止ニヨリ富然、国幣中社西寒多神社附属講社タル豊後国一宮講社規約モ改正ヲ要スルヲ以テ開發シコ丶ニ本規則ヲ制定シ神社法人登録済ノ日ヲ以テスルモノトス



豊後国一宮講社

大正13年(1924)3月13日、「崇敬者を結集して御神威を発揚する」ことを目的に豊後国一宮講社が設立された。主な事業は年一回講社大祭を厳かに実施し、祭典料を積み立てたり、各種品評会や講和会の開催を挙げている。

いずれにしても明治18年頃に結成されたと思われる一宮講社の改組と思われる。昭和16年の神祇院報告では、議員数は4,982人となっている。

(写真: 大正14年2月)

【2017.9.22】ブログ休止のお知らせ

突然ではありますが、『孤高歩記』の投稿を休止することにしました。 ポイ捨てゴミについての私見を公開で記すことについては、「もういいかな(enough)」と考えています。ポイ捨てゴミについては、ネガティブな事案なので内容もそれっぽくなってしまい、それについては疲労感と云いま...