Tuesday, February 28, 2017

大分の飲食店のおかげ

3.11の震災前、小生は大分の飲食店でアルバイトをさせてもらっていた。

せっかく大分に戻ってきたのだから、今までやったことのない仕事にチャレンジしてみようと思ったわけだ。

と言ってもずぶの素人のオジサンなので「雇ってくれないだろうなぁ」とダメ元で面接を受けるたところ、予想外に早く雇ってもらうことができた。

繁盛店ではあったが、「よく雇ってくれたなぁ」と、今でも思う。

当然のごとく役には立たず、皆さんにご迷惑をおかけしながら、20歳前後の女の子達に仕事を教えてもらいながらなんとか続けていくことができた。

そして、系列の新店に移動し、3.11の震災後しばらくして一身上の都合でお店をやめた。

結局、何もお役には立てなかった。

その後、知人が経営するBarのお手伝いをしたり、せっかくなのでもう少し飲食の勉強をしてみようと外国のお店で体験的に働かせてもらったりした。

外国のオイスターバーで、一晩で数十万円のチップを頂戴したことがある。
最初のお店で体験入店したのは偶然で、その時、そのお店のオーナーさんが違うお店のオーナーさんを紹介してくれ、そこでも体験入店。そして、また次にという「突撃隣の飲食店」みたいなことになっていた。

当初は、「飲食店ジプシー」を敢行するプランではなく、外国の流行っている飲食店のオーナーさんにイロイロお話しを聞いてみようと思い、知人を介してあるオーナーさんの元を訪れたのだ。

オーナーさんにお店を案内してもらいながらお話しを拝聴している所に、偶然3名の日本人観光客が遠慮気味に来店された。

お客様は言葉に不自由で、店員さんは日本語が話せずコミュニケーションが上手くとれていなかったので、「May I?」ということで、小生がメニューをお借りしてオーダーをとり、お客様のお相手をした。

するとお客様が、「夜の予約もしたい」とおっしゃり10名様のご予約を頂戴した。

それを見ていたオーナーさんが、「今晩あいていますか?KAIさんに彼らのお相手をお願いしたい」と言って下さり、いきなり1日体験で働かせてもらうことになった。

日本人のお客様(途中参加もあり15名に)と、小生の話をオーナーさんから聞いた彼の知人達が来店され、その結果、高額のチップになったという経緯。

アルバイトをしていたとは言え素人同然であることには変わりなく、特に何ができるわけでもないのだが、外国の素人が一生懸命やっているところがウケていたのではないかと自己分析している。

ほんの短い時間ではあったが、3ヵ国10店で「突撃隣の飲食店」を体験させてもらった。

これは、本当にいい経験だった。
そういう経験ができたのは、大分の飲食店で働かせてもらい、嫌な顔せず仕事を教えてくれた女の子達のおかげであり、皆様には感謝している。(もしかしたら、嫌だったかもしれないけど)

そして、本格的にゴミ拾いを始めたわけだが、飲食の仕事をしていなかったら「孤高のゴミを拾い」はしていなかったのではないかと思っている。

大分のお店では、開店前の清掃で土足の床を毎日雑巾がけをしていた。

モップでもよかったのだが、雑巾がけをしてお客様を迎えるという単純な気持ちからのことだった。

茶は服のよきように点て
炭は湯の沸くように置き
冬は暖かに夏は涼しく
花は野の花のように生け
刻限は早めに
降らずとも傘の用意
相客に心せよ
~利休七則~

そのように心掛けていたのだが、実際はなかなか難しいことで、思い返せば何もできていなかった。

今は、奥宮を掃き清めることで、その時できなかったことを実践できているのかもしれない。

ゴミ拾いの時は、「降らずとも傘の用意」はしている。それは、自分のためではなく人様のために持っている。長い土手を歩いているうちに天候が急変し雨になることがあり、傘を持たない人がずぶ濡れになってしまう。また、日陰がないので夏は日傘がわりになる。年数回しかないことだが、困った誰かのために持っている。

「返さなくよい傘ですのでご遠慮なく」と何度もお貸しするのだが、必ず戻ってくる。他県から出張で来られた方も、次回の出張の時に返してくれた。高校生の女の子も子供ちゃんも返してくれた。

人様のために傘を持ち歩くことも、飲食を経験していなければやっていない(考えつきもしない)のではないかな。


今、もう一度飲食店のアルバイトをしてみたいと思っている。

以来、何もしていないので飲食ど素人であることには変わりないのだが、この5年でゴミを20,000 km以上を拾い歩き、世界で一番ゴミを拾っていると言われると自分と、昔の自分とを比較してみたいという興味からだ。(「孤高の登拝」も含めて)

何がどのように変化したのか。(歳を重ねた以外に)

また、今も20歳前後の若手から仕事を教えてもらう姿勢を持てるのか。(若い子でなくとも)

そして、逆に若い子達に何かを教えることができるのであろうか。

あと、「3年続けないとやったことにカウントしない」というMy ルールがあるので、もうちょっと経験して「やったこと」にしたいなと。

ご縁があれは、トライしてみたいと思っている。おじさんでも雇ってくれる所あるかな。

死ぬ直前まで進化できたら幸せなことだ。

【2017.2.28】孤高のゴミ拾い: 21,072 km/13,094 mi

「霜で野菜が焼けてしもうた」と、ゴミ拾い道中の方が苦笑いしていました。
後半、暖かくて居眠りしそうになりながらゴミを拾い歩きました。

自動車学校の送迎バスの運転手さん、いつもご丁寧にありがとうございます。
最近、土手で放置、藪の中に投げ込まれた自転車をよく見かけるようになりました。

皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Monday, February 27, 2017

行間を読む男

「こだわり」は持たないようにしている。

そもそも「こだわりの店」って、どんな店なんだい?

そもそも「こだわり」は、褒め言葉ではない。

「気にしなくてもいいことを気にする」「細かいことにとらわれる」というようにネガティブな心の引っかかりで使われる言葉なのである。つまり、本来の「こだわりの店」とは、そういう店なのである。

松尾芭蕉のこだわり

山寺や石にしみつく蝉の声
  ↓
寂しさや岩にしみこむ蝉の声
  ↓
静けさや岩にしみいる蝉の声

熟考して2度リライトするという「こだわり」。

山寺(立石寺)を35 kmくらい通り過ぎたところで、「あの寺見た方がいいよ」と言われて、わざわざ歩いて戻ったというくらいだから、相当の「こだわり」。

朝茶を七里帰っても飲むというのも「こだわり」なのかもしれない。


ボレロのこだわり

2種類のメロディを繰り返していくだけの構成。

カラヤンの指揮で聴いてみる(YouTube)と16分の演奏時間で、同じ調子を17回繰り返している。

16回では物足りず、

18回では間延びしてしまうのだと。

作曲者のラヴェルは、17分で演奏することを望んでいたという。

その「こだわり」とは?

音楽は詳しくないけど、その「こだわり」は知りたいと思っている。


小生は、「ほっこり」のない男でもある。

「ほっとする」からの「ほっこり」として使われているが、元々は京都弁で「がっくりした」「疲れた」「嫌になった」という意味である。前提として嫌なこと、辛いことがあっての「お茶を飲んでほっこりした」という流れであれば意味を成すが、少なくとも現在多くの人が使う語感からの意味合いではない。

言葉は生き物で常に変化していくものだが、「そもそも」の意味はキチンと知っておいた方がいい時もある。

和製英語を含めて、英語のニュアンスについては、常に気を遣う。

日本人が好んで使う「リベンジ」なども気を付けた方がよい。

日本語は、英語に比べ同じ意味でも沢山の表現方法があり、「Yes(肯定)」の表現に至っては730通りあると言われている。感情表現の選択肢が沢山あるにも関わらず、現代日本人は、短縮かつ直接的な表現を好む。
小生は、デジタル本で読書を楽しむことができない。

書き手の言葉が、胸に響いてこない・・・
行間が読めない・・・
その前に、集中できていない。
新聞も紙の方が心地よい。

ネット社会では、ダイレクトに言葉のキャッチボールが行われることが多く、時に暴力的になることがある。

140文字の行間を読むのは難しい。

Some words hide other words.
シェークスピアの一節

ダヴィンチさんのように意図的に行間に真意を隠したり、池波正太郎さんのように行間に重みを持たせたり。

情報が氾濫する現代社会で真実を知るためには、行間の裏に隠れている真意を理解する努力が必要だ。

「皆まで言わすな」

いやいや、皆まで言っても理解してくれないから。

野球選手が、次の配球(または全配球まで)を読む
棋士が、次の一手(または数十手先まで)を読む
チェスは、平均40手で決まる

それに通じるものなのかもしれない。

もうちょっと深みのある人間になりたいものだと。

何度見直しても表現・誤字のミスが多い小生である。

自省と自戒。

【如月27日】孤高の登拝149度目(Going-to-the-God Trail)

冷たい西寒多の空気で身を引き締め、手が切れそうなお手水で心を清める。

境内はいつもより静かだったが、一歩山に入ると山の住人達の気配がする。

少し進むと彼らの視線を感じ「出るな」と確信し、彼らとの接触を避けるため小さな鈴をつけた。
最初の沢で小動物の新しい足跡を確認し、沢沿いを進むと反対側を何者かが並歩する足音がする。恐らく、足跡の主であろう。
更に上がっていくと、いつもの所で日記名「いの猪子」の後姿がチラッと見えたが、子供ちゃんはいなかったようだ。どうしたのだろう? 「いの猪子」は早足に麓集落方面の谷を下って行ったが、足音から途中でこけたかもしれない。

「山を出るんじゃねぇよ」と声を掛けたが、しばらくして麓集落の犬が激しく吠えたので、恐らく集落に向かったのだろう。

麓集落の犬の鳴き声は、静寂な山の反響でたまに上の方から聞こえる時があり、初めて聞いた時は「上に犬いるのぉ・・・」と、ちょっとビビった。

その後、山の住人達とは会わず。
展望所からの大分市街地は、透明な黒色に町の灯りが映え美しかったが、朝は少し霞んでいた。
奥宮拝殿のかんぬきが外れ扉が開いていたので、拝殿の中を確認するも異常なし。

いつも通りのルーチンで星明りで明るく感じる入口道の清掃を始める。

作業途中何度も手を止め、星いっぱいの夜空を見上げた。

週に一度くらいは、ゆっくりと夜空を見上げる余裕があってよい。

遠くで輝く星を眺めていると、自分の悩み、存在さえもちっぽけなものに感じてしまう。
 星を眺めすぎていつもより少し時間が掛かってしまった。
今週もタイヤ痕を消すことができず、西寒多の神に「申し訳ございません」と詫びる。
 今日は、沢山のことを西寒多の神と話した。
 西寒多山の中も外も暦通りに。
暦通りがありがたい。

西寒多神社: 鬼の歯形石

本宮山にまつわる次のような昔話に由来している。

ある時、太陽(天照)を祀る巫女の親と娘が本宮山にやってきて、毎日お祭りをしていた。隣の山、霊山に住んでいた鬼たちにとって、祭りの音は嫌なものだった。鬼は親や子を捕って喰おうとしたが、母親が霊山から本宮山まで一晩を橋を架けられたら食べられましょうと約束した。あともう少しで橋が完成という時、親子は手ミイを叩き、鶏の鳴きまねをした。鬼は朝が来たと思い、手に持った石を悔し紛れに嚙み砕いてしまった。

本宮山と霊山の谷合いに鬼達の歯形のついたという石が数多く見られる。
境内案内板の説

この石は、悪さをする鬼がいましたので村人達が鬼をこらしめる為に約束をさせました。それは、一夜で霊山を本宮山に橋をかけるようにと無理難題の約束でした。

ところが、鬼が頑張ってかけ終わりそうになったので氏子さんが一番鳥を早く鳴かせました。鬼はその為夜が明けたと思い、残念がって歯で石を投げました。最初は、他の地に投げたのですが、流行病が発生したのでこの西寒多の地に祭る。

本宮山の七不思議より

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KAI: 歯形から判断すると、鬼は相当デカい。

【2017.2.27】孤高のゴミ拾い(西寒多神社・奥宮ルート編): 21,057 km/13,084 mi

西寒多神社を後にしてしばらくすると、追い抜いた車が止まりシニアドライバーさんに「KAIさん?」と声を掛けて頂きました。

「はい」と答えると「貴方に一言あって・・・」と、車を降りられました。

苦情かな・・・

と、思いきや「大変申し訳ないと思って」と、満面の笑顔。

以前、奥様が「毎週、暗いうちに山に登ってお宮に参る人がいるらしいよ」という話をした時に「単なる山好きの暇人やろ」と言い、近所の人にもそう言ったのだと。

そして、先日の大分合同新聞の記事を読んで「貴方に一言御礼とお詫びを言おうと思っていたのです」

というお話でした。

以前も同じようなことがありました。奥様が私の話をしたところ、「そんな話(毎日15 kmゴミを拾うこと)は信じられない。そんな事して何の得があるのか・・・」と言ったというご主人が、大分合同新聞を読んで「ご尊顔を拝見しに・・・」ということで。


これは,、ある意味仕方ないことで、想定していたことです。

それこそ、先日書いた「宗教団体の人」というようなレッテルを貼られるようなこともありますし。

勿論、全ての人が「孤高のゴミ拾い」に理解があるわけではないこともわかっています。露骨にそういう態度を取られたり、皮肉を言われることもありました。(ここ1年くらいはないです)

最初の1年くらいは、人様の視線や雑音が気になることもありましたが、慣れてくると気にならなくなりました。

評価は人のもの
行為は自分のもの

そう思えるようになりました。「どうぞご自由に」と。

皆様、今後とも宜しくお願い致します。
最近、上の空缶をよく拾うのですが、売れてるようです。(ゴミマーケティング)
「復刻版」「期間限定」という言葉に弱い人多いですからね。
皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Sunday, February 26, 2017

歴史に耳を傾ける

戦争。日本の戦争は、ヤクザだ。
ヤケクソに巻き込まれて死ぬのは、いや。いっそ、ひとりで死にたいわい。

人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この頃の、指導者たちの、あのまじめさ。ぷ!

~太宰治『斜陽』より~


登拝でお世話になっている西寒多神社も、かつて国威発揚の場として利用されたことがあった。

西寒多の神が、戦のための国威発揚に利用されないことを祈っている。

今の日本に戦争をしたい人など存在しないはず。

戦争反対と大声を挙げることはしないが、日々この町のゴミを拾いながら、登拝をし奥宮を清めながら、平和であることに感謝し、平和ボケをしている自分を戒めるのである。

西寒多の神の庭を掃きながら「一体どうなるんですかねぇ」なんてことを話しかけるのである。

「歴史に耳を傾けよ」と声がした。

戦争の本や資料を読む人、映画を見る人、漫画を見る人、体験者からの口伝に耳を傾ける人、それぞれ自戒をしながら平和について考え願っている。


知覧基地から特攻隊として出撃した若者たちの遺書を記載している「魂魄の記録」という本を読む。

20歳前後の若者たちの遺書。

特攻で出撃することを「光栄なこと」であるという内容の遺書。

親御さんに「先に逝く親不孝」という遺書。

その遺書の行間に書きたくても書くことができない若者の本音が読み取れ、それが辛く悲しい。

行間を読んでいるうちに手が震えてくるので、一度に沢山の遺書を読むことはできない。戦争を知らない大人にとって、彼らの遺書はあの世からの重いメッセージとなる。

いくつか抜粋。

安原正文 大尉(高知県)/昭和20年3月29日没/享年24歳
沢山貰ったお手紙はみな ポケットに入れて持って行きます。
御守袋(御人形の寝ている)も忘れずつれていきます。
コリントも もう出来なくなりましたが、これからは兄ちゃんは御星様の仲間に入って 千鶴ちゃんが立派な人になるのを見守っています。
泣いたりなどしないで朗らかに笑って 兄ちゃんが手柄を立てるのを祈って下さい。
御父さんや御母さんの言い付けを守って立派な人になって下さい。
さようなら
三月二十五日
正文
千鶴子ちゃんへ
矢作一郎 大尉(東京)/昭和20年4月2日没/享年23歳
幸一君
一歩先に征く
御両親の事は宜敷く頼むぞ
俺に出来る最善の努力と技術を尽くして闘う
快なる哉だ
俺の嫁は空母ときめた
お前には三國一の花嫁を迎えてやりたいな
元気で皆様と楽しく暮らして呉よ
では呉々も後を頼むぞ
雲を裂き地を挫かなん年明けぬ
国の恩 親の恩 師の恩に感謝しつつ
一郎
清水保三 少尉(滋賀県)/昭和20年4月3日没/享年23歳
清子殿
兄は特別攻撃隊員として太平洋の防波堤になる為に征くことになった。
今迄少しも兄らしい事もせず許して呉れ。
強く優しいそして朗らかにお母さんや姉さんの教えを良く守って兄さんの分迄孝養を盡してくれ。
兄は常に大空より清子を守っている。
躰の丈夫なのが何よりの孝行だ。病気にならない様に呉々も注意せよ。
桜咲く春には九段に居る。
勉強を怠るなよ。
さようなら
三月二十七日
兄より
唯一の妹に
四宮徹 少佐(熊本県)/昭和20年4月29日没/享年22歳
母上 兄上様
只今より出撃致します。実に喜び勇んで居ります。丁度 小学校時代の遠足を思い出します。どんな獲物があるかと胸をわくわくさせて待って居ります。
決意とか覚悟とか云う様な こだわりは少しもなく 本当に全員純真無邪気です。
小学校に通学する朝「行って参ります。」と云って出掛けた事を思い出します。
本当に嬉しさで一パイです。デハ、「行っテ参リマス」
御機嫌よう。

天長の 月あび勇 必勝行
大橋治男 少尉(岐阜県)/昭和20年4月1日没/享年26歳
母上様
御達者でお暮しの御事と存じ上げます。
二十八年間は夢のようでした。この二十八年間の母上様の御苦心、御辛抱、肝に銘じて居ります。されば今日の日も勇んで征きます。
(中略)
綾子の事に関しては母上様今後共一層御面倒を見てやって下さい。
あれも正式なる式も挙げ得ず、常に二人で一度でよいから帰郷したいと申して居りましたが、それは出来ませんでした。
それ故、隣の近所の方々とは未だ親しくいたして居らず、突然一人ボッチでは随分苦労すると思います。
女は女と、綾子の事は母上様くれぐれもよろしくお願い申し上げ、最後に母上様のご健康をお祈りいたして失礼いたします。
昭和二十年三月二十一日
治男
御母上様 
林幹二 大尉(富山県)/昭和20年6月6日没/享年22歳
あんまり緑が美しい
今日はこれから
死に行く事すら
忘れてしまいそうだ。
真っ青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲
六月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。
~作戦命令を待っている間に~

小鳥の声が楽しそう
「俺もこんどは小鳥になるよ」
日のあたる草の上にねころんで 杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
本日十三、三十五分
いよいよ知ランを離陸する
なつかしの祖国よ さらば
使いなれた万年筆を“かたみに”送ります。

大分県出身の方の遺書が1通。
猫橋芳朗 大尉(大分県)/昭和20年4月9日没/享年22歳
辞世三首
畏くも賜名に榮ゆる我隊は 四二て振式の名をば留めん
先がけし友に後れし我もまた 死して永久に皇國譲らん
大丈夫のたぎる血潮は欺くとありと 驕れる敵の度肝奪はん

Never think that war, no matter how necessary, nor how justified, is not a crime.

いかに必要であろうと、いかに正当化できようとも、戦争が犯罪だということを忘れてはいけない。~アーネスト・ヘミングウエイ~

その犯罪を繰り返すアメリカを見ると、彼らは心身ともに疲れている。

暗殺にVXが使われたことで、アメリカ人の北朝鮮に対する警戒心が一気に高まった。

「一体どうなるんですかねぇ」


戦争で命を落とされた先人達は、こんなにゴミだらけの町、それを見て見ぬふりの無関心社会のために命を捧げたのかな。

そんな事を考えながらゴミを拾う。

右や左の人達が、ゴミを拾ってくれるわけではない。

日々拾い歩くのは、歴史に耳を傾ける大分の絶対的マイノリティである。

自省と自戒。

西寒多神社: 『本宮社の森』(奥宮西寒多神の庭)

「本宮社の森」の植生について、大分市教育委員会が調査し、『大分市の文化財』にその報告書が掲載されているので、その主要部分を抜粋し転載する。
雲霧帯の性格をもった森

西寒多神社の奥の院にあたる本宮神社は、本宮山の標高550メートル付近の尾根に鎮座している。ここの境内林の植生調査結果を組成表(素表)に掲載した。この森はアカガシ、ウラジロガシ、アカシデ、タブノキ、ヒサカキの優先度が高い。

表6の常任度表と比較した結果、この森はアカガシ、ハイノキ、シキミ、ミヤマシキミの適合度が高く、これらを標微種とするアカガシ―ミヤマシキミ群集に同定できた。この群集は常緑広葉樹帯の上限付近に成立し、着生のシダ植物やコケ植物が多く雲霧帯の性格をもっている。アカガシの枝の幹の低い位置から伸びて風圧に強く、尾根や山頂に生育できる。
大分県では、宇佐神宮奥宮の院の御許山(647メートル)山頂の大元神社境内林(ここは御許山の山頂が御神体)、宇目町鷹鳥屋山(639メートル)の鷹鳥屋神社の境内林、日田市戸山(707メートル)の戸山神社の境内林、清川村御嶽山(560メートル)の御獄神社の境内林、緒方町大石樫山(宮尾国有林)などのアカガシ―ミヤマシキミ群集は範型となる森である。

大分市では、本宮社境内林のほかに霊山青年の家(現在は廃止)の上方にこの群集が広く残っている。また、高崎山北斜面・大谷東尾根の標高450メートル付近にこの群集の残存林がある。

西寒多神社: 『西寒多神社の森』

「西寒多神社の森」の植生について大分市教育委員会が調査し、その報告書が『大分市の文化財(第31集)』(昭和53年3月)に掲載されているので、その主要部分を抜粋し以下に転載する。

(1)森林の階層構造

西寒多神社の森の階層構造の概念図を図1に表した。森林はいろいろな植物が空間をうまく利用して、高木層、亜高木層、低木層、草本層、コケ層を形成し共同生活を営んでいる。歴史が古くて安定期に達した森は、階層構造がはっきり分化しているが、若い林や択伐などの人為攪乱があった林は低木層や亜高木層に陽樹が多く、階層構造が不明確になる。西寒多神社の森は階層構造がはっきりしており安定期に達している。

(2)組成と優先度

森林を構成している植物の被度を優占度で表すと、森林の姿がより明確になる。優占度は、表1の判定基準に従って6段階で表している。

高木層の優占種のイチイガシは、樹高15メートル~17メートル、調査面積250平方メートル中に9本生育しており、このうち胸高直径40センチ~70センチのものが6本あった被度は80%に達している。亜高木層はサカキとミミズバイ、低木層はイズセンリョウやアオキ、草本層はツルコウジの優占度がそれぞれ高い。西寒多神社の森を各階層の優占種で表すとイチイガシ―サカキ―イズセンリョウ―ツルコウジ分群集1)によく一致しており、筆者はイチイガシ群集と同定した。なお横浜国大の大野啓一氏は1996年、この林分をミミズバイ―スタジイ群集のムクノキ亜群集に同定している。この見解の違いについては、別の機会に論じることにして、ここでは慣用のイチイガシ群集を用いた。群集名は標微種ばかりでなく、立地の生態的特性を反映した相観を考慮して優占種を用いた方が理解しやすいと考えている。

(3)人為攪乱によるイチイガシ群集の退行

西寒多神社本殿の裏は小高い丘になっており、麓はイチイガシ群集、それを囲むように山腹はアラカシ林、尾根はアカマツ林、その周辺部は伐採されてタラノキ―ススキ群落になっている。本殿を中心に同心円状に広がっている植生の変化は、地形的な要因もあるが、それ以上に人為的要因が強く作用した結果と判断している。つまり、イチイガシ群集が人為干渉によって退行していく過程と考えてよい。

イチイガシ群集が人為によって退行すると、まずイチイガシ群集標微種のイチイガシ、ミミズバイ、イズセンリョウ、ツルコウジなどの標微種が姿を消して、代ってアラカシ、ヤブニッケイ、クロキ、ヒサカキ、などの優占度が高くなり、更にアカメガシワ、ヤマハゼ、ネムノキなどの陽樹が侵入してアラカシ―ジャノヒゲ群集へ退行する。人為干渉や低木層にネジキ、ヤマツツジ、コバノミツバツツジ、シャッシャンボなどツツジ科の植物、草本層にウラジロ、コシダ、コウヤボウキを伴ったアカマツ―ヤマツツジ群集へ退行する。また、コナラ、ヤマハゼ、ネムノキ、アカメガシワ、イヌビワ、ヤブムラサキなど、陽樹の優占度はますます高くなる。

しかし、クロキ、ヒサカキ、アラカシなどの常緑広葉樹は、この群集においても高い優占度を維持しており、人為干渉が少なくなるとコナラ―クヌギ群集を経てアラカシジャノヒゲ群集が復元する。コナラ―クヌギ群落に対して遷移が進まない程度に人為干渉が続いている状態が里山林である。なお頻繁に伐採する人為干渉が過度に加わると、ススキやクズなどススキ群団の植物やヌルデ、タラノキ、ナガバモミジイチゴなどを伴った先駆的植物群落へ退行していく。

大分の子供の貧困【2017.2.26】孤高のゴミ拾い: 21,045 km/13,077 mi

封を切っていない食料品・飲料品・日用品が大量に投棄されていました。

買ったものなのか、盗まれたものなのか。
未開封の商品が、ここまで大量投棄されることは稀ではありますが、未開封の商品がポイ捨てされること自体は日常茶飯事のことです。
投棄された方の育ってきた環境や胸の内まではわかりませんが、罰当たりであることには違いないです。

モッタイナイ(Mottainai)
 過去何度も書きましたが、大分市のスラム化は、着実に進行しています。
違う場所では、食べかけの手作りカレーが容器と一緒に捨てられていました。

この光景もまた日常茶飯事です。

買ったお弁当をちょっとだけ食べて捨てたり、どなたかが作ってくれたであろうお弁当やオニギリを手を付けずに捨てたり。
未開封の洗剤なども。
両手にゴミを抱えて歩く私の姿を見て、「そんなんぶちまけて帰りよ!」「市役所にやらせればいい!」と、この町の情けない現状に怒りの声を上げる方達も多く。

けど、それでは何も解決はしません。

誰かがやらなければならないのです。

ただ、ゴミに向き合う考え方を変えなければ、これからも悪化するばかりであるということは理解して頂きたです。

机の上ばかり片すことばかりに集中するあまり、机の下はとんでもないことになっています。

ある一部の場所がキレイになったからといって、ゴミを捨てる人がゴミを捨てるのをやめたわけではありません。場所を変えただけです。

標語やパフォーマンスで解決するような簡単な話でもありません。

外国のゴミの多い町は、低所得者や低教育者が多いのですが、大分の町はどうなのでしょう。

大分は、見るからに身の危険を感じるような町でしょうか。

夜遅くでも酔っぱらった女性が1人で歩いている姿を見かけますし、夜9-10:00くらいでも小学生の子供ちゃん達が、親御さんと歩いています。

外国のスラム街と同じようにゴミが捨てられるのですが、大きな違いがひとつあります。

外国の投棄ゴミには、未開封や食べ残し、飲み残しのゴミはありません。

大分独特の投棄ゴミの特徴です。

日本全国同じような状況なのかもしれませんが、私は大分のゴミしか拾っていませんので、よそ様のことは言いません。

満足な教育しか受けられず、貧しい町の人達がゴミを捨てるのと、そうでない大分の人達が捨てるゴミと、

どっちが性質が悪いでしょうか?

その大分の町に、沢山の貧困キッズがいるというニュースを見聞きします。

パッと見にはわかりませんが、そういう現実があるのだと。

子供ちゃんの貧困と「モッタイナイ」ゴミ。

ポイ捨てゴミは、社会と人の鏡です。

ゴミを毎日拾っていると、イロイロなことがわかります。

あと何千キロ、あと何トン、この町のゴミを拾い歩けば、大分県知事さん・大分市長さん・県議さんや市議さん達が、この深刻な現状に気付いてくれるのでしょうか。

見て見ぬふりをする方達に伝えることができるのでしょうか。

ポイ捨てゴミが、ゴミだけの問題ではないということを。

事態は悪くなるばかりです。

活性化やワールドカップなどの楽しい話とは別次元で、我々は、イロイロと覚悟をしなければなりません。

その準備はできているでしょうか。

この町のゴミを21,000 km拾い歩く私は、非常に心配しているのですが、これからの大分を牽引する若い世代が、「何の問題もない」ということであるならば、私は黙って自分のために拾い続けるだけです。

明日も明後日も。
皆様のご理解とご協力をお願い致します。
****************************************************
今日は、前半で重たくなり半分の距離しか回収できず。

Saturday, February 25, 2017

老いた少年の日曜日

日曜日は、一日がかりで明日から始まる一週間の準備に充てている。

実の部分とフィジカルな部分とメンタルな部分の準備とイメージングをしっかりと。

準備を尽くすことで心に余裕が生まれ、「Nice 'N' Easy」な一週間を過ごすことができるのだ。

イロイロな部分で感じるようになった衰えを「心」でカバーしていくお年頃。

「今できることを後に回さない」「メリハリをつけバランスよく」を最優先に。

日曜日にゆったりとリラックスすることが、老いた少年にとって一番大切な時となるのである。

新しい一週間を惰性で過ごさぬよう、リラックスすることに集中しよう。

西寒多神社: 国幣中社列格の経緯

西寒多神社が国幣中社に列せられた経緯については詳しいことは判明していない。ただ各種資料に後藤碩田(本名: 後藤今四郎)の働きがあった、という記述がみられる。後藤碩田は、明治4年(1871)10月に西寒多神社の主典になり、後に権禰宜も務めた人物だが、歴史や国学、漢字などに通じて博学を以って鳴り、それ以前から西寒多神社とは接点があったようだ。

江戸時代に歴代西寒多神社の神主を務めた佐藤家の歴史を綴った『佐藤家の事績』の第6代佐藤孝兵衛藤原尚能の項に、西寒多神社の国幣中社列格の経緯に触れた次のような記述がある。

ロ、西寒多神社國幣中社列格二努力ス 佐藤秀男氏ノ談ニヨレハ「西寒多神社カ國幣中社ニ列セラレタノハ明治四年六月デアル、當時直入郡城原村ノ神官日野資計カ大分郡乙津村ノ後藤今四郎(碩田ト號ス)」ト協力シテ時ノ太政官、神祇官ニ申請シタモノデ日野資計ハ其レ迄ハ、西寒多神社ハ大野郡野津郡荘寒田ニアルモノトミ思ッテ居タガ申請ノタメ上京途中鶴崎ニ於テ碩田カラ、東稙田ノ今ノ神社カ本社テアルコトヲ教ヘラレ上京ヲ中止シテ寒田在ノ今ノ神社ヲ實地に調査シテ申請シタノテアル」ト

此調査ノ際案内役ハ佐藤孝兵衛等カ主トシテ之レニ任シタノテアル即チ神社ノ模様等ハ孝兵衛等ノ努力ニヨッテ一段ノ荘厳味ヲ加ヘ史實モ亦的確ニ示サレ茲ニ國幣中社列格申請ヲ決定セラレタ次第テアル

因ニ後藤碩田ハ維新ノ勤王家ニシテ大分郡桃園村乙津ニ生レ明治四年西寒多神社主典トナリ枚岡乃ト称セリ後藤今四郎ト云ヒシ時代ハ岡藩(竹田藩)ノ用達富豪ナリシト又畫聖竹田ノ高弟ナリ、後、西寒多神社禰宜ニ任ラレタ人、詳細ハ昭和十年大分縣人傳ニアリ西寒多神社カ國幣中社ニ列格セシ時ノ宮司ハ杵築町ノ人、物集高世(物集高見博士ノ父)権宮司ハ清原宣道(画号ヲ無暦ト云フ)禰宜近藤弘紀、首藤周造、権禰宜加藤賢成、野村綱紀、主典安東敏雄、枚岡乃、卜部志保理、城原村日野資計ナリ

これを読むと当時、直入郡城原村の城原八幡社神官日野資計と後藤碩田が協力して時の太政官、神祇官に申請したのだという。日野はそれまで西寒多神社は大野郡野津荘寒田にあるもの(この地にも西寒田神社あり)とい思っていたが、申請のため上京する途中、鶴崎で後藤から東稙田の今の神社が本社であることを教えられた。日野は上京を中止して西寒多神社を実地調査した。この時、佐藤孝兵衛らが詳しく案内したとされ、日野はこの調査に基づいて列格申請した、と記している。尚、日野は後に西寒多神社や禰宜を務めている。
また西寒多神社の初代宮司物集高世の人物を紹介した『物集高世』(奥田秀・編著)で、物集が西寒多神社宮司になる経緯を既述した部分に「西寒多神社は、神官枚岡真守(後藤碩田のこと)の努力が実って、国幣中社に成ったものの・・・」という一文がある。編著者の奥田は後藤がどのような努力をしたのか具体的に記述していないが、このことからも後藤が大きな役割を果たしたことは間違いなかったものと見られる。

国幣中社列格が明治4年6月であることから、日野や後藤らの列格申請は明治3年後半から明治4年春頃までのことと思われる。この頃は、廃藩置県以前でまだ旧藩が存在していた。藩がそのまま県に置き換えられたのは4年7月で、更にそれらの県を統合して大分県や小倉県ができたのは11月である。初代大分県参事森下景端が府内(大分)に着任して統治を治めたのは翌5年1月以降である。つまり国幣中社に列せられた当時の西寒多神社のある地域はまだ延岡藩の枝領だったのである。

一方、天領(幕府領)だった日田は慶応4年(明治元年)4月に日田県となり、同6月に松方正義が知事として赴任してきた。松方は明治3年10月に日田を離れるが、その前後から日田や府内で一揆が起き、翌4年3月頃ようやく収束した。西寒多神社の初期の神職に且つて勤皇家として活躍した日田県役所の役人がいることや、後藤碩田のように日田県から任命された者もいることを考えると、日田県からの何らかの働きかけがあったとも考えられる。

いずにれしても西寒多神社が『延喜式神名帳』にその名が記載されていたことが大きく作用しており、日野や後藤らの列格申請の大きな根拠になったことは十分推測できる。ただこの場合でも豊後の六座が記載されており、その中から西寒多神社が国幣中社に選ばれたのは、やはり日野や後藤らの積極的な働きかけがあったからと思われる。

西寒多神社: 社格と神階

西寒多神社は、昭和20年まで国幣中社の中格が与えられていた。これは、明治4年(1871)5月14日、太政官布告によって定められたものである。

社格は、「延喜式神名帳」の中に出てくるようにいろんな形式で用いられてきたが、昭和20年の敗戦後、国家神道が廃されたのに伴って社格制度も廃止され、別表神社に指定された。このため西寒多神社の最新の社格ということになれば、太政官布告による国幣中社ということになる。

太政官布告では国家自らが経営する神社を官社、それ以外の神社を諸社と称した。官社には官幣大社、官幣中社、官幣小社と国幣大社、国幣中社、国幣小社があった。そして官弊社には例祭に際して皇室から、国弊社には国庫から幣帛料が神社に供進されていた。

ちなみに諸社には府・県社、郷社、村社の4つがあり、これ以外に無格社があった。また、この他に歴史上の人物を祀った別格官幣大社があった。

西寒多神社はまた「豊後一ノ宮」という社格を与えられていた。この「一ノ宮」とか「二ノ宮」という社格の表現は歴史が古く、10世紀頃から行われてきた。国司等がその国の有力な神社を巡拝する時の順位をしめしたもので、時代によって異なることも多い。

諸国一ノ官表を見ると、同じ国に一ノ宮が複数あった所がかなりある。九州では豊後と備前に複数の一ノ宮があった。豊後では西寒多神社と柞原八幡宮に「豊後一ノ宮」の社格を与えられていた。但し、古代、中世の古文書や古記録には西寒多神社を「豊後一之宮」とする記録は見えず、資料的に立証できない。

西寒多神社が「一ノ宮」を称するようになった背景としては『大日本一宮記』に
と記されたことや、寛文4年(1664)白井宗因の『神社便覧』に豊葺原一宮御事として「西寒多神社 豊後大分郡」とあること、更に延宝4年(1676)霜月下二日付けの橘三喜誌す『一宮巡詣之願主記』に
と記されていることなどが影響したとの説がある。


神階

神階は、諸神に奉授した位階で、資料の上で最初に登場したのは天武天皇元年(672年)7月である。この神階が授与されたのは9世紀に集中しており、これらの中には式内社に組織されていない神社が400社近くある。時の権力者が神階を授ける目的は、在地の富豪層を背景に新たに成長してきた神祇を、時の権力者つまり国家が掌握すると共に、国家につなぎとめておくことにあった、とされる。

式内社の数は神名帳に登載された当時、3,132座あり、このうち豊後には次の6座あった。

大分郡西寒多神社(大分市寒田に鎮座)

直入郡建男霜凝日子神社(竹田市神原に鎮座)

速水郡宇奈岐日女神社(由布市湯布院町川北に鎮座)

火男火賣神社二座(別府市鶴見に鎮座)

海部郡早吸日女神社(大分市関に鎮座)


これらは、9世紀半ば以降に神階を授けられている。この中で西寒多神社は最も遅く神階を授けられている。しかし、「延喜式神名帳」に「大分郡一座名神大社西寒多神社」とあり、国幣大社、つまり国司が祭る神として記載された。『類聚三代格』によると、嘉祥3年(850)に出された太政官符はそれまでの神階に一階加え、無位の神社には六位を授けるよう命じ、大社や名神社で無位のものは直ちに従五位下を授けるよう命じている。。

更にその翌年、従五位を授けられた神以外は全て正六位にするよう命じている。これによると嘉祥4年以前の神社で無位の神はいないことになるが、『日本三大実録』貞観11年(869)3月22日条に西寒多神社は無位から従五位を授けられている。このことから類推すると西寒多神社の創建は嘉祥4年(851)以降、貞観11年以前ということになる。

また西寒多神社が、短期間のうちに社格を上昇させた背景には、周辺地域の開発が進んで力を付けてきた富豪層を国家機構に組み込もうとする中央政府の思惑を指摘する見方がある。つまり、もともと西寒多神社は寒田川と敷戸川の流域を開発した富豪層と、それに率いられた農民が祀った神で、9世紀初頭から九州を襲った凶作と飢饉の際に富豪層が貧窮農民を率いてこの地域の開発を進め力を付けてきた。このため中央政府は在地の神を国家の神祇体制の中に組み込み、それによって地方の富豪層を従わせる方策をとったのだ、との見方が強い。(『大分市史(上)』)

【2017.2.25】孤高のゴミ拾い: 21,038 km/13,072 mi

ひんやりと冷たい朝でした。

下を見るとタバコの吸殻だらけなので、なるべく青空を見ながらをゴミ拾いでした。

15 kmの道中、煙草の吸殻が視界から消えることはありません。
ゴミを拾いながら、翌日のゴミ拾いの作戦を立ています。

周辺のゴミを探しながら、川の反対側の土手(河川敷)も見ています。

近くからだと見えないゴミもあるのです。

ほんの少し角度を変えるだけで、今まで見えなかったものが見えるようになってきます。

簡単そうで難しい。

何事も同じですね。

ゴミ拾いは、木ではなく森を見なければなりません。

「勝ちたければ、常識から脱却せよ」とは、チェスの世界チャンピオンのお言葉。
皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Friday, February 24, 2017

宗教観

このブログの中で「孤高のゴミ拾い」「孤高の登拝」をしている源について、「特別な信仰心はない」ということを度々書いている。

これには理由がある。

ゴミを拾っていると、「あなた宗教の人か何か?」と聞かれることが結構あったからだ。(最近はない)

世間の皆様が、ゴミを拾い歩く人間にどういうイメージを抱いているのかということ。

世知辛く物騒な町で、見ず知らずの怪しげな男が突然現れ毎日ゴミを拾い歩けば、それは警戒されるのは当たり前のことだと理解していた。


アメリカの人達が「インドの山奥の修行僧でもできない(しない)」と言う「孤高のゴミ拾い」。

特に信仰心のない小生が、彼らを越える所に意味がある。

同様に、特に信仰心のない小生が登拝を続け、奥宮をひたすら掃き清めることに意味がある。

ちなみに、小生はボランティアでもない。

ボランティアでもない小生が拾うことに意味がある。


世界で一番ゴミを拾うことで、誰も見たことのない世界を見ることができる。

少なくとも皆さんが見ている景色と小生が見ている景色は違うのだ。

約2000年前から守られ続ける西寒多神社奥宮の磐座とは?

なぜ、未だに続いているのかを感じてみようと思った。

最初は、明るくなってから山に入っていたが、今は真っ暗な登拝道を上がっていく。

「西寒多の神様に奥宮に戻って頂くには、夜に上がるしかない。奥宮を掃き清めている姿を人様に見られてはならない(できれば)」と、なぜかそう思った。

小生は、ゴミを拾いながら般若心経を暗誦し、定期的に上洛し座禅を組む。

ゴミを拾って10,000 kmを過ぎた頃から叩かれなくなり、ご住職に「貴方の真似事はできません」と、有り難いお言葉を頂戴した。

今は祝詞をぶつぶつ暗誦し、古事記を読み、西寒多神社の勉強をしている。空海の本も読んでいる。

香港に行くと道教寺院を訪れるが、「道教とはなんぞや」のレベルなので、「道教101」くらいの勉強はしておきたいと思っている。

海の向こうで暮らした時間も長かったので、聖書の言葉を引用することもあれば、イスラムの友人にコーランが流れる目覚まし時計をプレゼントされ、毎朝コーランで目覚める時期もあった。(ビックリして一瞬で目覚める)

しかし、小生には特別な信仰心はない。

良いことは積極的に取り入れる性質である。
そもそも「神道」については、宗教だとは思っていない。

小生は「歩人」である。

神道は、歩人にとっての道であり方位磁針のようなもの。

そういう理解であり、これからも変わらないであろう。

「孤高のゴミ拾い」「孤高の登拝」を続け厳しい夏・冬を越えることができたなら、次のステージに進む資格を得たと判断し、新たな課題を課していくことを繰り返す。「資格」については、常に強く考える。

間もなく冬が終わる。


大分には宇佐神宮もあれば国東もあり、切支丹にも寛容な時代もあった。

神仏習合というのは、コンビネーションではなくインテグレーションである。

コンビネーションは「A+B=AB」であり、インテグレーションは「A+B=C」となる。

大分は、まとまりのない町だ。

AやBやCがバラバラに行動する町であり、それは、昔から変わらない。

市議選が終わり、「大分はなぜまとまりがないのか?」という魂の叫びが見ず知らずの若い世代から届き、人生の先輩方からは「なんも変わらんよ」と魂の抜けたお言葉を頂戴する。

この町には、AやBやCを習合させるインテグレーター/リエゾンが必要だ。

イデオロギーや縦割りやつまらぬプライドが邪魔をする。

ポイ捨てゴミ問題しかり。

ポイ捨てゴミ問題は、社会と人の鏡のようなもの。

表っ面だけ、机の上だけをキレイにする社会や人がどういう風に映るのかと。

我々のベースにあるものをしっかりと持ち、遠い先人がしてきたように「渡来人」や「西洋人」から学び、それを習合させればよいのではないか。

そんな風に考えている。

そんな大分であるよう、小生はイデオロギーや縦割りやつまらぬプライドなく、自ら泥水やヘドロの中に手を入れ机の下のゴミを拾い歩いている。

それが、「孤高のゴミ拾い」「個々の登拝」で学んだことであり、大分に恩返しをすることであると。
世の中の混迷困窮が続くと、人の攻撃の矛先は外へ向かわず、内に向いがちだ。 
異物を排除しようと法律や規則が強化されつつある。 
気が付くと我々は、法律や規則に強く依存しており、自分で何も決めず考えなくなっている。 
杓子定規な言い分や愚にもつかない大義名分に縛られ、身動きがとれなくなっている。 
我々の先人は、問題解決の時、知恵を使ってきた。 
それが難問であればあるほど、予めの決まり事や約束事に捕われず、発想豊かに知恵を使ってきたのだ。 
嘘や理屈に合わぬ事、時には非合法な事も必要だ。 
この世界を本当に動かしているのは、法律でも規則でも無い、そんな人間の優れた叡智なのだ。 
人は善く生きれば良い、善く生きる事がすべてだ。 
『京の散歩道』より

西寒多神社: 三代実録

西寒多神社の名前が初めて記録に登場するは貞観11年(869)のことで、『三代実録』という歴史書にこの年の3月に当時神階を持たなかった西寒多神社に「従五位下」の位が与えられたことが書かれている。しかし、10世紀に出された「延喜式神名帳」以後、歴史資料に登場せず、詳しい歴史はわかっていない。享保3年(1718)に神主の佐藤家長が著した『豊後国一宮西寒多神社之略記』には、建久8年(1197)に大友氏の初代能直から神領の寄進を受けて以来、代々の大友氏から安堵を受けたこと、薩摩の島津氏が豊後まで攻め込んできた際に神殿が破壊されたが、大友義統が再興したこと、などが記されている。

『神祇志料』によると、弘安8年(1285)に「神田二百四十六町」とあるが、これは由(柞)原宮の神田のこととされ、「豊後国図田帳」には見えない。また、享和3年(1803)に編纂の『豊後国志』には西寒多神社を深く信仰していた大友氏10代の親世が応永15年(1408)に居館に近い現在地に社殿を移したと伝えられており、このことから鎌倉・室町時代を通じて大友氏と密接な関係が続き、庇護を受けてきたものと推測される。

『大日本国一宮記』に西寒多神社(号大分宮。箱崎同体也。又、名 柞原八幡)豊後大分郡」と記され、寛文4年(1664)白井宗因の『神社便覧』には豊葦原一宮御事として「西寒多神社 豊後大分郡」とある。延宝4年(1676)霜月下二日付けの橘三喜の『一宮巡詣之願主記』には「一国一宮巡詣之時、過 豊之後州寒田村 拝 西寒多大明神」と記される。

西寒多神社のある寒田地区は、且つては豊後国大分郡早田荘の一部で、寛永11年(1634)松平忠昭領、万治元年(1658)幕府領となり高松代官の支配を受けた。寛文5年(1665)、肥後熊本藩の領地となったが、一年後、再び幕府領に戻った。天和2年(1682)日田藩松平直矩領、貞享3年(1686)には三度幕府領となったが、正徳2年(1712)日向の牧野延岡藩の領地となった。

延享4年(1747)、牧野氏が転封となり、内藤氏が入封してからも延岡藩の領地が続いた。延岡藩は、初め山津に役所を置いて豊後各地の枝領を治めたが、後に千歳に役所を移した。西寒多神社はこの役所の支配を受けた。歴代の延岡藩主の尊崇を受けたのもこのためである。

延岡が明治2年(1867)に行った神社取調では代々の領主から境内地の年貢を免除されていたようで、内藤氏の時代には蔵米から三十石が寄進されていた。この神社取調書によると、境内には本社(神殿)、拝殿、神楽殿、御炊殿、神子屋、本地堂などがあり、このうち本地堂を取り除いたことが記載されている。恐らく前年3月に出された神仏分離令とそれによって巻き起こった廃仏毀釈運動に関連した対応と思われる。

廃仏毀釈運動に関して言えば、『大分郡志』に「社僧は霊山也」との記述がある。社僧とは、神社や神宮寺に属して、仏事を修する僧侶のことで、霊山(九嶷山)中腹の飛来山霊山寺と歴史的に密接な関係があったことが推測されるが、それを示す文書は全く残されていない。慶應4年(1868)3月17日に神祇事務局が発した「別当社僧復飾令」など一連の法令による「神仏分離令」や同28日の「仏教色撤去令」によって廃仏毀釈運動が巻き起こった際に、意図的には破却されたことも十分考えられる。

延岡藩の神社取調書には各建物の大きさが書かれている。その内容と明治6年から8年まで権宮司を務めた清原宣道が描いた「西寒多神社形容姿勢図」が、完全に一致するので、その信憑性は高い。
旧宮大工家の建築記録には、慶長14年(1609)寒田一宮が再興されたことが記されている。

このうち棟札が現存するのは延享3年の分のみで、略記のほか旧宮大工の建築記録にも残っている。略記に記載されていないが、弘化4年(1847)には、神楽殿の再建が行われており、その時の棟札が残されている。

一方、旧宮大工家に伝わる「建築記録」によると、宝暦8年(1758)に西寒多神社の屋根が「カネ(銅板)葺」になったことが記されており、形容姿勢図の神殿の銅板葺きは、この時になされたことも考えられる。しかし、明治以降の記録では神殿の屋根は、檜皮葺に替えられたのかもしれない。略記よると2年後の宝暦10年(1760)に神殿が改築されたとしている。

この旧宮大工家の建築記録には、文化4年(1807)に寒田一宮の鳥居が建てられた、とある。

[Source: 御遷座六百年史]

【2017.2.24】孤高のゴミ拾い: 21,023 km/13,063 mi

大分川・七瀬川の土手(河川敷)には溜まったゴミが多く、
 ゴミ捨て場にしている人も多いのです。
拾っても24時間後にはゴミだらけ。

明日も明後日も。

そんな21,000 kmです。
それでも、今日もまた沢山の方に声を掛けて頂きました。

ありがとうございます。
皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Thursday, February 23, 2017

プレミアムフライデーと仕事と生活の調和(Work-Life Balance)

アメリカで「仕事と生活の調和(Work-Life Balance)」に大切なことといえば、下記の項目が一般的にあげられる。。
  1. 会社の雇用ポリシーを学ぶ: ルール違反にならないように。
  2. 会社・同僚とのコミュニケーションを大切に: 公私問わずに相談事などを含めて。
  3. テクノロジーの有効活用: 文明の利器を上手に使う。 
  4. テレコミュニケート: 「仕事を家庭に持ち込まない」ではなく、「自宅でできることは自宅で」に切り替える。
  5. 「NO」と言うことを学ぶ:  わがままにならないように、「できない時はできない」という勇気と環境と雰囲気作りを。
  6. 喧嘩・争いごとを回避; イライラせず、争わず、心穏やかでいられるように努める。
  7. 自宅や自室などの「クリーン(整理整頓)」について再考:  縛りがなくなるとだらしなくなりがちなので、常にきちんと。
  8. プライベートの時間を大切に守る: 仕事以外の趣味などリラックスできる時間をしっかりと確保する。
あとは、お酒との付き合い方と朝の使い方かな。

夜の経済のために政府が「プレミアムフライデー」とか推進するのは、日本くらいではないかな。(日本らしいけど)

「早く帰って家族と過ごす」ということでなら理解できるけども。

多分、根付かない。

何でもかんでも「活性化」思考でなく、「仕事と生活の調和(Work-Life Balance)」について真面目に考えた方が、結果的に良いサイクルになると思うのだけど。

手段が目的に変わってしまのうが、日本の悪いくせ。(ゴミ拾いもだけど)

西寒多神社: 御祭神の変遷

西寒多神社の祭神は、本来は当地域の住民から神として尊崇され、大切に祭られた産土神(うぶすなかみ)であったものと思われる。産土神とは、生まれた土地の守り神、あるいは村の鎮守、氏神様のことである。現在は主祭神を「西寒多大神(天照皇大御神)」と統一表記しているが、これは長い歴史の中で、時代の変遷に伴って変化した結果であろう。

西寒多大神が、この地域の産土神であることは、西南の背後に聳える本宮山の山頂に旧祠があることからも裏付けられる。山の名前自体がそれを物語っており、山頂の旧祠の近くには巨石があり、その近くには泉が沸いていて、かつては祭祀を執り行っていたという伝承もある。言い換えれば、この本宮山を神体山として自然発生的に成立した神社であろうと思われる。古来、人々はこの自然発生的な産土神に五穀豊穣や家内安全、国家平穏など素朴な祈りを捧げてきたのである。

神階授受や延喜式の記載を見ると、西寒多神社が主祭神とされており、平安時代初期までは西寒多神が主祭神であったことが分かる。しかし、そこにいつ頃から天照大御神など天皇家の祖先神が入ってきたかは、はっきりとはわからない。

『西寒多神社縁起』(天正3年[575]に旧記を書写したものを、元禄14年[1701]に平松利重という人物が再度書写表装して奉納したもの。安永十年[1781]に神主の藤原尚伴がまた移したと記している)によると、応神天皇の勅によって武内宿禰が西寒多山に最初に祀った神は三座で、正面が天照大御神、左相殿が月読尊、右相殿が天忍穂耳尊だったという。

その後、西寒多神社が衰退して久しい頃、今度は中臣鎌足の夢枕に武内宿禰が立って神社再興を命じたので、天智2年(662)西寒多川の上流に社殿を建てた、とある。その時に祀った神は神功皇后、応神天皇、武内宿禰の三座で、上代に祀った三神をこの時に改めた、となっている。このように永い歴史に中で、祭神の座を天照大御神など天皇家の祖先神や八幡信仰の祭神、藤原氏の祖先神などが占めるようになったのであろう。

しかし、祭神がいつ頃どのような変遷を辿ったかは不明で、推測する以外にない。天正3年(1575)以降、安永10年(1781)頃は八幡神の時代だったと思われる。更に遡れば14世紀の中頃(南北朝初期)には、既に八幡神を祀っていた可能性がある。

江戸時代にまとめられた『豊後志』(著書、年代不詳)には「西寒多神社 在碩田郡 祭神三座 神功皇后 応神天皇 武内宿禰」とあり、西寒多神の名前はない。

幕末の頃は八幡神ではなく、天照大御神に戻っていたことは、明治2年(1869)の『神社明細牒』からもわかる。同書によると、祭神は大日ルメ命(天照大御神の別名)、月読命、天忍穂耳命の三神で、相殿は品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、足仲彦命(仲哀天皇)となっている。

明治以降も主祭神の変遷は続いたことがうかがえる。

明治32年(1899)6月21日付けの大分県内務部長丸山重俊が、西寒多神社宮司毛利登に出した次の通牒によると、西寒多神社が前年10月に内務大臣に対して祭神を応神天皇に変更したいと建議したことがわかる。しかし、その理由が明確でなかったのか、それは認められず、従来通り西寒多神社を祭神として唱えるよう求められている。

客年十月西寒多神社祭神決定ノ件内務大臣へ建議の候處今般右建議ノ事由ノミニテハ未タ其祭神ヲ応神天皇ト訂正スルニ付従来ノ通西寒多神社ト唱ヘ置カル方可然段其筋ヨリ通牒有之候条此段及御移牒候也

内務部長

明治三十二年六月二十一日

大分縣書記官丸山重俊

西寒多神社宮司毛利登殿


しかし、明治37年12月に内務省に提出した神社明細の控には西寒多神社は消えて次のようになっている。

本殿

月讀尊
天照大御神
天忍穂耳尊

相殿

應神天皇
神功皇后
武内宿禰

殿内所在諸神

大直日神
神直日神
天児屋根神
伊弉許大神
 大年神
 倉稲魂神
 天思兼神
 経津主神
 誉田別尊
 軻遇突智大神
 伊弉冊大神

これに基づいて明治44年(1911)11月に大分県内務部長川口彦治からの祭神中配祀の神名等の調査報告要請に対して次のような文書を提出している。


本月十四日庶第ニ九八七号ノ一ヲ以テ御照會二相成候事項左之ニ候也

明治四十四年十一月二十六日

西寒多神社宮司 遠山正雄

内務部長

大分縣事務官 川口彦治殿


配祀ノ神名(明治三十七年十二月附ヲ以テ内務省へ進達セシ當社明細書控ニヨル)

本殿

月讀尊
天照大御神
天忍穂耳尊

相殿

應神天皇
神功皇后
武内宿禰

殿内所在諸神

大直日神
神直日神
天児屋根神
伊弉諾尊
大年神
倉稲魂神
天思兼神
経津主神
譽田別尊
軻遇突智神
伊弉冊尊

配祀ノ年月日

コレハ凬ク不明ニ帰シタルモノ、如ク近時大ニ研究調査ニ苦心スルモ別ニ徴証トスベキモノサヘモ発見セズ


この祭神名は、大正10年(1921)12月に提出した神社明細帳にも同じように記載されている。

しかし、昭和7年(1932)発行の『国幣中社西寒多神社略記』では「祭神西寒多大神一座を 社殿にては天照大神」としており、同十三年版の『神道大辞典』も「西寒多神を主神とし、月読尊、天忍穂耳尊、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、大直日神、天児屋根命、伊弉冊尊、大歳神、倉稲魂神、天思兼神、経津主神、軻遇突知大神、を記す。但し社殿によれば主神は天照皇大神であるという」となっている。

戦後の改訂版も「主神西寒多大神は天照大神にましますといわれ」という書き方をしており、現在の「主祭神 西寒多大神(天照皇大御神)」に至っている。

[Source: 御遷座六百年史]

【2017.2.23】孤高のゴミ拾い: 21,008 km/13,053 mi

ツバメの第一陣が大分川に飛来しました。

カラスに威嚇されていましたが、華麗なるツバメ返しでかわしていました。

ウグイスは既に鳴いていますが、明らかにボイトレ不足。
今日で21,000 kmを通過しました。靴がすぐに潰れてしまいます。

あと何千キロ、何トン拾えば、大分の町が心身共に美しくなるのかな・・・。
皆様のご理解とご協力をお願い致します。

【2017.6.22】孤高のゴミ拾い: 22,497 km/13,979 mi

人ってあんなに不遜になれるものかしら? あんな不遜な人が政治家先生なんかになれるものなのかしら? 政治、オリンピック、築地のことから日々の事件や何から何まで、 日本ってこんなにできない国でしたかね? 政治家先生にモラルを求められない現状、人間の性根の...