Monday, February 27, 2017

西寒多神社: 鬼の歯形石

本宮山にまつわる次のような昔話に由来している。

ある時、太陽(天照)を祀る巫女の親と娘が本宮山にやってきて、毎日お祭りをしていた。隣の山、霊山に住んでいた鬼たちにとって、祭りの音は嫌なものだった。鬼は親や子を捕って喰おうとしたが、母親が霊山から本宮山まで一晩を橋を架けられたら食べられましょうと約束した。あともう少しで橋が完成という時、親子は手ミイを叩き、鶏の鳴きまねをした。鬼は朝が来たと思い、手に持った石を悔し紛れに嚙み砕いてしまった。

本宮山と霊山の谷合いに鬼達の歯形のついたという石が数多く見られる。
境内案内板の説

この石は、悪さをする鬼がいましたので村人達が鬼をこらしめる為に約束をさせました。それは、一夜で霊山を本宮山に橋をかけるようにと無理難題の約束でした。

ところが、鬼が頑張ってかけ終わりそうになったので氏子さんが一番鳥を早く鳴かせました。鬼はその為夜が明けたと思い、残念がって歯で石を投げました。最初は、他の地に投げたのですが、流行病が発生したのでこの西寒多の地に祭る。

本宮山の七不思議より

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KAI: 歯形から判断すると、鬼は相当デカい。

Sunday, February 26, 2017

西寒多神社: 『本宮社の森』(奥宮西寒多神の庭)

「本宮社の森」の植生について、大分市教育委員会が調査し、『大分市の文化財』にその報告書が掲載されているので、その主要部分を抜粋し転載する。
雲霧帯の性格をもった森

西寒多神社の奥の院にあたる本宮神社は、本宮山の標高550メートル付近の尾根に鎮座している。ここの境内林の植生調査結果を組成表(素表)に掲載した。この森はアカガシ、ウラジロガシ、アカシデ、タブノキ、ヒサカキの優先度が高い。

表6の常任度表と比較した結果、この森はアカガシ、ハイノキ、シキミ、ミヤマシキミの適合度が高く、これらを標微種とするアカガシ―ミヤマシキミ群集に同定できた。この群集は常緑広葉樹帯の上限付近に成立し、着生のシダ植物やコケ植物が多く雲霧帯の性格をもっている。アカガシの枝の幹の低い位置から伸びて風圧に強く、尾根や山頂に生育できる。
大分県では、宇佐神宮奥宮の院の御許山(647メートル)山頂の大元神社境内林(ここは御許山の山頂が御神体)、宇目町鷹鳥屋山(639メートル)の鷹鳥屋神社の境内林、日田市戸山(707メートル)の戸山神社の境内林、清川村御嶽山(560メートル)の御獄神社の境内林、緒方町大石樫山(宮尾国有林)などのアカガシ―ミヤマシキミ群集は範型となる森である。

大分市では、本宮社境内林のほかに霊山青年の家(現在は廃止)の上方にこの群集が広く残っている。また、高崎山北斜面・大谷東尾根の標高450メートル付近にこの群集の残存林がある。

西寒多神社: 『西寒多神社の森』

「西寒多神社の森」の植生について大分市教育委員会が調査し、その報告書が『大分市の文化財(第31集)』(昭和53年3月)に掲載されているので、その主要部分を抜粋し以下に転載する。

(1)森林の階層構造

西寒多神社の森の階層構造の概念図を図1に表した。森林はいろいろな植物が空間をうまく利用して、高木層、亜高木層、低木層、草本層、コケ層を形成し共同生活を営んでいる。歴史が古くて安定期に達した森は、階層構造がはっきり分化しているが、若い林や択伐などの人為攪乱があった林は低木層や亜高木層に陽樹が多く、階層構造が不明確になる。西寒多神社の森は階層構造がはっきりしており安定期に達している。

(2)組成と優先度

森林を構成している植物の被度を優占度で表すと、森林の姿がより明確になる。優占度は、表1の判定基準に従って6段階で表している。

高木層の優占種のイチイガシは、樹高15メートル~17メートル、調査面積250平方メートル中に9本生育しており、このうち胸高直径40センチ~70センチのものが6本あった被度は80%に達している。亜高木層はサカキとミミズバイ、低木層はイズセンリョウやアオキ、草本層はツルコウジの優占度がそれぞれ高い。西寒多神社の森を各階層の優占種で表すとイチイガシ―サカキ―イズセンリョウ―ツルコウジ分群集1)によく一致しており、筆者はイチイガシ群集と同定した。なお横浜国大の大野啓一氏は1996年、この林分をミミズバイ―スタジイ群集のムクノキ亜群集に同定している。この見解の違いについては、別の機会に論じることにして、ここでは慣用のイチイガシ群集を用いた。群集名は標微種ばかりでなく、立地の生態的特性を反映した相観を考慮して優占種を用いた方が理解しやすいと考えている。

(3)人為攪乱によるイチイガシ群集の退行

西寒多神社本殿の裏は小高い丘になっており、麓はイチイガシ群集、それを囲むように山腹はアラカシ林、尾根はアカマツ林、その周辺部は伐採されてタラノキ―ススキ群落になっている。本殿を中心に同心円状に広がっている植生の変化は、地形的な要因もあるが、それ以上に人為的要因が強く作用した結果と判断している。つまり、イチイガシ群集が人為干渉によって退行していく過程と考えてよい。

イチイガシ群集が人為によって退行すると、まずイチイガシ群集標微種のイチイガシ、ミミズバイ、イズセンリョウ、ツルコウジなどの標微種が姿を消して、代ってアラカシ、ヤブニッケイ、クロキ、ヒサカキ、などの優占度が高くなり、更にアカメガシワ、ヤマハゼ、ネムノキなどの陽樹が侵入してアラカシ―ジャノヒゲ群集へ退行する。人為干渉や低木層にネジキ、ヤマツツジ、コバノミツバツツジ、シャッシャンボなどツツジ科の植物、草本層にウラジロ、コシダ、コウヤボウキを伴ったアカマツ―ヤマツツジ群集へ退行する。また、コナラ、ヤマハゼ、ネムノキ、アカメガシワ、イヌビワ、ヤブムラサキなど、陽樹の優占度はますます高くなる。

しかし、クロキ、ヒサカキ、アラカシなどの常緑広葉樹は、この群集においても高い優占度を維持しており、人為干渉が少なくなるとコナラ―クヌギ群集を経てアラカシジャノヒゲ群集が復元する。コナラ―クヌギ群落に対して遷移が進まない程度に人為干渉が続いている状態が里山林である。なお頻繁に伐採する人為干渉が過度に加わると、ススキやクズなどススキ群団の植物やヌルデ、タラノキ、ナガバモミジイチゴなどを伴った先駆的植物群落へ退行していく。

Saturday, February 25, 2017

西寒多神社: 国幣中社列格の経緯

西寒多神社が国幣中社に列せられた経緯については詳しいことは判明していない。ただ各種資料に後藤碩田(本名: 後藤今四郎)の働きがあった、という記述がみられる。後藤碩田は、明治4年(1871)10月に西寒多神社の主典になり、後に権禰宜も務めた人物だが、歴史や国学、漢字などに通じて博学を以って鳴り、それ以前から西寒多神社とは接点があったようだ。

江戸時代に歴代西寒多神社の神主を務めた佐藤家の歴史を綴った『佐藤家の事績』の第6代佐藤孝兵衛藤原尚能の項に、西寒多神社の国幣中社列格の経緯に触れた次のような記述がある。

ロ、西寒多神社國幣中社列格二努力ス 佐藤秀男氏ノ談ニヨレハ「西寒多神社カ國幣中社ニ列セラレタノハ明治四年六月デアル、當時直入郡城原村ノ神官日野資計カ大分郡乙津村ノ後藤今四郎(碩田ト號ス)」ト協力シテ時ノ太政官、神祇官ニ申請シタモノデ日野資計ハ其レ迄ハ、西寒多神社ハ大野郡野津郡荘寒田ニアルモノトミ思ッテ居タガ申請ノタメ上京途中鶴崎ニ於テ碩田カラ、東稙田ノ今ノ神社カ本社テアルコトヲ教ヘラレ上京ヲ中止シテ寒田在ノ今ノ神社ヲ實地に調査シテ申請シタノテアル」ト

此調査ノ際案内役ハ佐藤孝兵衛等カ主トシテ之レニ任シタノテアル即チ神社ノ模様等ハ孝兵衛等ノ努力ニヨッテ一段ノ荘厳味ヲ加ヘ史實モ亦的確ニ示サレ茲ニ國幣中社列格申請ヲ決定セラレタ次第テアル

因ニ後藤碩田ハ維新ノ勤王家ニシテ大分郡桃園村乙津ニ生レ明治四年西寒多神社主典トナリ枚岡乃ト称セリ後藤今四郎ト云ヒシ時代ハ岡藩(竹田藩)ノ用達富豪ナリシト又畫聖竹田ノ高弟ナリ、後、西寒多神社禰宜ニ任ラレタ人、詳細ハ昭和十年大分縣人傳ニアリ西寒多神社カ國幣中社ニ列格セシ時ノ宮司ハ杵築町ノ人、物集高世(物集高見博士ノ父)権宮司ハ清原宣道(画号ヲ無暦ト云フ)禰宜近藤弘紀、首藤周造、権禰宜加藤賢成、野村綱紀、主典安東敏雄、枚岡乃、卜部志保理、城原村日野資計ナリ

これを読むと当時、直入郡城原村の城原八幡社神官日野資計と後藤碩田が協力して時の太政官、神祇官に申請したのだという。日野はそれまで西寒多神社は大野郡野津荘寒田にあるもの(この地にも西寒田神社あり)とい思っていたが、申請のため上京する途中、鶴崎で後藤から東稙田の今の神社が本社であることを教えられた。日野は上京を中止して西寒多神社を実地調査した。この時、佐藤孝兵衛らが詳しく案内したとされ、日野はこの調査に基づいて列格申請した、と記している。尚、日野は後に西寒多神社や禰宜を務めている。
また西寒多神社の初代宮司物集高世の人物を紹介した『物集高世』(奥田秀・編著)で、物集が西寒多神社宮司になる経緯を既述した部分に「西寒多神社は、神官枚岡真守(後藤碩田のこと)の努力が実って、国幣中社に成ったものの・・・」という一文がある。編著者の奥田は後藤がどのような努力をしたのか具体的に記述していないが、このことからも後藤が大きな役割を果たしたことは間違いなかったものと見られる。

国幣中社列格が明治4年6月であることから、日野や後藤らの列格申請は明治3年後半から明治4年春頃までのことと思われる。この頃は、廃藩置県以前でまだ旧藩が存在していた。藩がそのまま県に置き換えられたのは4年7月で、更にそれらの県を統合して大分県や小倉県ができたのは11月である。初代大分県参事森下景端が府内(大分)に着任して統治を治めたのは翌5年1月以降である。つまり国幣中社に列せられた当時の西寒多神社のある地域はまだ延岡藩の枝領だったのである。

一方、天領(幕府領)だった日田は慶応4年(明治元年)4月に日田県となり、同6月に松方正義が知事として赴任してきた。松方は明治3年10月に日田を離れるが、その前後から日田や府内で一揆が起き、翌4年3月頃ようやく収束した。西寒多神社の初期の神職に且つて勤皇家として活躍した日田県役所の役人がいることや、後藤碩田のように日田県から任命された者もいることを考えると、日田県からの何らかの働きかけがあったとも考えられる。

いずにれしても西寒多神社が『延喜式神名帳』にその名が記載されていたことが大きく作用しており、日野や後藤らの列格申請の大きな根拠になったことは十分推測できる。ただこの場合でも豊後の六座が記載されており、その中から西寒多神社が国幣中社に選ばれたのは、やはり日野や後藤らの積極的な働きかけがあったからと思われる。

西寒多神社: 社格と神階

西寒多神社は、昭和20年まで国幣中社の中格が与えられていた。これは、明治4年(1871)5月14日、太政官布告によって定められたものである。

社格は、「延喜式神名帳」の中に出てくるようにいろんな形式で用いられてきたが、昭和20年の敗戦後、国家神道が廃されたのに伴って社格制度も廃止され、別表神社に指定された。このため西寒多神社の最新の社格ということになれば、太政官布告による国幣中社ということになる。

太政官布告では国家自らが経営する神社を官社、それ以外の神社を諸社と称した。官社には官幣大社、官幣中社、官幣小社と国幣大社、国幣中社、国幣小社があった。そして官弊社には例祭に際して皇室から、国弊社には国庫から幣帛料が神社に供進されていた。

ちなみに諸社には府・県社、郷社、村社の4つがあり、これ以外に無格社があった。また、この他に歴史上の人物を祀った別格官幣大社があった。

西寒多神社はまた「豊後一ノ宮」という社格を与えられていた。この「一ノ宮」とか「二ノ宮」という社格の表現は歴史が古く、10世紀頃から行われてきた。国司等がその国の有力な神社を巡拝する時の順位をしめしたもので、時代によって異なることも多い。

諸国一ノ官表を見ると、同じ国に一ノ宮が複数あった所がかなりある。九州では豊後と備前に複数の一ノ宮があった。豊後では西寒多神社と柞原八幡宮に「豊後一ノ宮」の社格を与えられていた。但し、古代、中世の古文書や古記録には西寒多神社を「豊後一之宮」とする記録は見えず、資料的に立証できない。

西寒多神社が「一ノ宮」を称するようになった背景としては『大日本一宮記』に
と記されたことや、寛文4年(1664)白井宗因の『神社便覧』に豊葺原一宮御事として「西寒多神社 豊後大分郡」とあること、更に延宝4年(1676)霜月下二日付けの橘三喜誌す『一宮巡詣之願主記』に
と記されていることなどが影響したとの説がある。


神階

神階は、諸神に奉授した位階で、資料の上で最初に登場したのは天武天皇元年(672年)7月である。この神階が授与されたのは9世紀に集中しており、これらの中には式内社に組織されていない神社が400社近くある。時の権力者が神階を授ける目的は、在地の富豪層を背景に新たに成長してきた神祇を、時の権力者つまり国家が掌握すると共に、国家につなぎとめておくことにあった、とされる。

式内社の数は神名帳に登載された当時、3,132座あり、このうち豊後には次の6座あった。

大分郡西寒多神社(大分市寒田に鎮座)

直入郡建男霜凝日子神社(竹田市神原に鎮座)

速水郡宇奈岐日女神社(由布市湯布院町川北に鎮座)

火男火賣神社二座(別府市鶴見に鎮座)

海部郡早吸日女神社(大分市関に鎮座)


これらは、9世紀半ば以降に神階を授けられている。この中で西寒多神社は最も遅く神階を授けられている。しかし、「延喜式神名帳」に「大分郡一座名神大社西寒多神社」とあり、国幣大社、つまり国司が祭る神として記載された。『類聚三代格』によると、嘉祥3年(850)に出された太政官符はそれまでの神階に一階加え、無位の神社には六位を授けるよう命じ、大社や名神社で無位のものは直ちに従五位下を授けるよう命じている。。

更にその翌年、従五位を授けられた神以外は全て正六位にするよう命じている。これによると嘉祥4年以前の神社で無位の神はいないことになるが、『日本三大実録』貞観11年(869)3月22日条に西寒多神社は無位から従五位を授けられている。このことから類推すると西寒多神社の創建は嘉祥4年(851)以降、貞観11年以前ということになる。

また西寒多神社が、短期間のうちに社格を上昇させた背景には、周辺地域の開発が進んで力を付けてきた富豪層を国家機構に組み込もうとする中央政府の思惑を指摘する見方がある。つまり、もともと西寒多神社は寒田川と敷戸川の流域を開発した富豪層と、それに率いられた農民が祀った神で、9世紀初頭から九州を襲った凶作と飢饉の際に富豪層が貧窮農民を率いてこの地域の開発を進め力を付けてきた。このため中央政府は在地の神を国家の神祇体制の中に組み込み、それによって地方の富豪層を従わせる方策をとったのだ、との見方が強い。(『大分市史(上)』)

Friday, February 24, 2017

西寒多神社: 三代実録

西寒多神社の名前が初めて記録に登場するは貞観11年(869)のことで、『三代実録』という歴史書にこの年の3月に当時神階を持たなかった西寒多神社に「従五位下」の位が与えられたことが書かれている。しかし、10世紀に出された「延喜式神名帳」以後、歴史資料に登場せず、詳しい歴史はわかっていない。享保3年(1718)に神主の佐藤家長が著した『豊後国一宮西寒多神社之略記』には、建久8年(1197)に大友氏の初代能直から神領の寄進を受けて以来、代々の大友氏から安堵を受けたこと、薩摩の島津氏が豊後まで攻め込んできた際に神殿が破壊されたが、大友義統が再興したこと、などが記されている。

『神祇志料』によると、弘安8年(1285)に「神田二百四十六町」とあるが、これは由(柞)原宮の神田のこととされ、「豊後国図田帳」には見えない。また、享和3年(1803)に編纂の『豊後国志』には西寒多神社を深く信仰していた大友氏10代の親世が応永15年(1408)に居館に近い現在地に社殿を移したと伝えられており、このことから鎌倉・室町時代を通じて大友氏と密接な関係が続き、庇護を受けてきたものと推測される。

『大日本国一宮記』に西寒多神社(号大分宮。箱崎同体也。又、名 柞原八幡)豊後大分郡」と記され、寛文4年(1664)白井宗因の『神社便覧』には豊葦原一宮御事として「西寒多神社 豊後大分郡」とある。延宝4年(1676)霜月下二日付けの橘三喜の『一宮巡詣之願主記』には「一国一宮巡詣之時、過 豊之後州寒田村 拝 西寒多大明神」と記される。

西寒多神社のある寒田地区は、且つては豊後国大分郡早田荘の一部で、寛永11年(1634)松平忠昭領、万治元年(1658)幕府領となり高松代官の支配を受けた。寛文5年(1665)、肥後熊本藩の領地となったが、一年後、再び幕府領に戻った。天和2年(1682)日田藩松平直矩領、貞享3年(1686)には三度幕府領となったが、正徳2年(1712)日向の牧野延岡藩の領地となった。

延享4年(1747)、牧野氏が転封となり、内藤氏が入封してからも延岡藩の領地が続いた。延岡藩は、初め山津に役所を置いて豊後各地の枝領を治めたが、後に千歳に役所を移した。西寒多神社はこの役所の支配を受けた。歴代の延岡藩主の尊崇を受けたのもこのためである。

延岡が明治2年(1867)に行った神社取調では代々の領主から境内地の年貢を免除されていたようで、内藤氏の時代には蔵米から三十石が寄進されていた。この神社取調書によると、境内には本社(神殿)、拝殿、神楽殿、御炊殿、神子屋、本地堂などがあり、このうち本地堂を取り除いたことが記載されている。恐らく前年3月に出された神仏分離令とそれによって巻き起こった廃仏毀釈運動に関連した対応と思われる。

廃仏毀釈運動に関して言えば、『大分郡志』に「社僧は霊山也」との記述がある。社僧とは、神社や神宮寺に属して、仏事を修する僧侶のことで、霊山(九嶷山)中腹の飛来山霊山寺と歴史的に密接な関係があったことが推測されるが、それを示す文書は全く残されていない。慶應4年(1868)3月17日に神祇事務局が発した「別当社僧復飾令」など一連の法令による「神仏分離令」や同28日の「仏教色撤去令」によって廃仏毀釈運動が巻き起こった際に、意図的には破却されたことも十分考えられる。

延岡藩の神社取調書には各建物の大きさが書かれている。その内容と明治6年から8年まで権宮司を務めた清原宣道が描いた「西寒多神社形容姿勢図」が、完全に一致するので、その信憑性は高い。
旧宮大工家の建築記録には、慶長14年(1609)寒田一宮が再興されたことが記されている。

このうち棟札が現存するのは延享3年の分のみで、略記のほか旧宮大工の建築記録にも残っている。略記に記載されていないが、弘化4年(1847)には、神楽殿の再建が行われており、その時の棟札が残されている。

一方、旧宮大工家に伝わる「建築記録」によると、宝暦8年(1758)に西寒多神社の屋根が「カネ(銅板)葺」になったことが記されており、形容姿勢図の神殿の銅板葺きは、この時になされたことも考えられる。しかし、明治以降の記録では神殿の屋根は、檜皮葺に替えられたのかもしれない。略記よると2年後の宝暦10年(1760)に神殿が改築されたとしている。

この旧宮大工家の建築記録には、文化4年(1807)に寒田一宮の鳥居が建てられた、とある。

[Source: 御遷座六百年史]

Thursday, February 23, 2017

西寒多神社: 御祭神の変遷

西寒多神社の祭神は、本来は当地域の住民から神として尊崇され、大切に祭られた産土神(うぶすなかみ)であったものと思われる。産土神とは、生まれた土地の守り神、あるいは村の鎮守、氏神様のことである。現在は主祭神を「西寒多大神(天照皇大御神)」と統一表記しているが、これは長い歴史の中で、時代の変遷に伴って変化した結果であろう。

西寒多大神が、この地域の産土神であることは、西南の背後に聳える本宮山の山頂に旧祠があることからも裏付けられる。山の名前自体がそれを物語っており、山頂の旧祠の近くには巨石があり、その近くには泉が沸いていて、かつては祭祀を執り行っていたという伝承もある。言い換えれば、この本宮山を神体山として自然発生的に成立した神社であろうと思われる。古来、人々はこの自然発生的な産土神に五穀豊穣や家内安全、国家平穏など素朴な祈りを捧げてきたのである。

神階授受や延喜式の記載を見ると、西寒多神社が主祭神とされており、平安時代初期までは西寒多神が主祭神であったことが分かる。しかし、そこにいつ頃から天照大御神など天皇家の祖先神が入ってきたかは、はっきりとはわからない。

『西寒多神社縁起』(天正3年[575]に旧記を書写したものを、元禄14年[1701]に平松利重という人物が再度書写表装して奉納したもの。安永十年[1781]に神主の藤原尚伴がまた移したと記している)によると、応神天皇の勅によって武内宿禰が西寒多山に最初に祀った神は三座で、正面が天照大御神、左相殿が月読尊、右相殿が天忍穂耳尊だったという。

その後、西寒多神社が衰退して久しい頃、今度は中臣鎌足の夢枕に武内宿禰が立って神社再興を命じたので、天智2年(662)西寒多川の上流に社殿を建てた、とある。その時に祀った神は神功皇后、応神天皇、武内宿禰の三座で、上代に祀った三神をこの時に改めた、となっている。このように永い歴史に中で、祭神の座を天照大御神など天皇家の祖先神や八幡信仰の祭神、藤原氏の祖先神などが占めるようになったのであろう。

しかし、祭神がいつ頃どのような変遷を辿ったかは不明で、推測する以外にない。天正3年(1575)以降、安永10年(1781)頃は八幡神の時代だったと思われる。更に遡れば14世紀の中頃(南北朝初期)には、既に八幡神を祀っていた可能性がある。

江戸時代にまとめられた『豊後志』(著書、年代不詳)には「西寒多神社 在碩田郡 祭神三座 神功皇后 応神天皇 武内宿禰」とあり、西寒多神の名前はない。

幕末の頃は八幡神ではなく、天照大御神に戻っていたことは、明治2年(1869)の『神社明細牒』からもわかる。同書によると、祭神は大日ルメ命(天照大御神の別名)、月読命、天忍穂耳命の三神で、相殿は品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、足仲彦命(仲哀天皇)となっている。

明治以降も主祭神の変遷は続いたことがうかがえる。

明治32年(1899)6月21日付けの大分県内務部長丸山重俊が、西寒多神社宮司毛利登に出した次の通牒によると、西寒多神社が前年10月に内務大臣に対して祭神を応神天皇に変更したいと建議したことがわかる。しかし、その理由が明確でなかったのか、それは認められず、従来通り西寒多神社を祭神として唱えるよう求められている。

客年十月西寒多神社祭神決定ノ件内務大臣へ建議の候處今般右建議ノ事由ノミニテハ未タ其祭神ヲ応神天皇ト訂正スルニ付従来ノ通西寒多神社ト唱ヘ置カル方可然段其筋ヨリ通牒有之候条此段及御移牒候也

内務部長

明治三十二年六月二十一日

大分縣書記官丸山重俊

西寒多神社宮司毛利登殿


しかし、明治37年12月に内務省に提出した神社明細の控には西寒多神社は消えて次のようになっている。

本殿

月讀尊
天照大御神
天忍穂耳尊

相殿

應神天皇
神功皇后
武内宿禰

殿内所在諸神

大直日神
神直日神
天児屋根神
伊弉許大神
 大年神
 倉稲魂神
 天思兼神
 経津主神
 誉田別尊
 軻遇突智大神
 伊弉冊大神

これに基づいて明治44年(1911)11月に大分県内務部長川口彦治からの祭神中配祀の神名等の調査報告要請に対して次のような文書を提出している。


本月十四日庶第ニ九八七号ノ一ヲ以テ御照會二相成候事項左之ニ候也

明治四十四年十一月二十六日

西寒多神社宮司 遠山正雄

内務部長

大分縣事務官 川口彦治殿


配祀ノ神名(明治三十七年十二月附ヲ以テ内務省へ進達セシ當社明細書控ニヨル)

本殿

月讀尊
天照大御神
天忍穂耳尊

相殿

應神天皇
神功皇后
武内宿禰

殿内所在諸神

大直日神
神直日神
天児屋根神
伊弉諾尊
大年神
倉稲魂神
天思兼神
経津主神
譽田別尊
軻遇突智神
伊弉冊尊

配祀ノ年月日

コレハ凬ク不明ニ帰シタルモノ、如ク近時大ニ研究調査ニ苦心スルモ別ニ徴証トスベキモノサヘモ発見セズ


この祭神名は、大正10年(1921)12月に提出した神社明細帳にも同じように記載されている。

しかし、昭和7年(1932)発行の『国幣中社西寒多神社略記』では「祭神西寒多大神一座を 社殿にては天照大神」としており、同十三年版の『神道大辞典』も「西寒多神を主神とし、月読尊、天忍穂耳尊、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、大直日神、天児屋根命、伊弉冊尊、大歳神、倉稲魂神、天思兼神、経津主神、軻遇突知大神、を記す。但し社殿によれば主神は天照皇大神であるという」となっている。

戦後の改訂版も「主神西寒多大神は天照大神にましますといわれ」という書き方をしており、現在の「主祭神 西寒多大神(天照皇大御神)」に至っている。

[Source: 御遷座六百年史]

Tuesday, February 21, 2017

西寒多神社: 古墳説/二つの大分社説

西寒多神社が鎮座している場所は古墳の跡ではないか、という説がある。勿論、古文書などの裏付けがあるわけではなく、あくまでも推論である。

西寒多神社は南側の小高い丘を削った段丘の上に北向きに鎮座しているが、この南側、つまり神殿の裏側の崖に横穴墓があったのではないか、という推測である。実際、西寒多神社の東側の敷戸地区などの丘陵地には数多くの横穴墓が現存しているほか、前方後円墳と思われる墓地もある。敷戸神社や清秦寺もその跡地ではないかとという見方もある。この敷戸神社は、かつて「鬼塚」と呼ばれていた所で、江戸時代までは大分郡内の名旧跡となっていた。現在は、小さな公園になっており鳥居や社殿の基壇跡、宝筺印塔などが残っている。

西寒多神社の社地が「形からすれば古墳であるかもしれない」と語ったのは大分大学の故渡辺澄夫教授である。渡辺氏は大分市木の上地区にあった御陵古墳(昭和44年に宅地造成で消失)が、全長80メートルもある巨大なもので、『古事記』に登場する大分君の墓ではないか、という説が出てから問題が大きくなった、としている。更に古代氏姓制度研究家大田亮氏の『豊日誌』を引用して、「大分社」が二つあり、もう一つは稙田にあって豊門別命(とよとわけのみこと)を祀り、もう一つは津守にあって大分君稚君(おおいたのきみわかみ)を祀るとして、二人とも大分国造大分君の歴代の人物で、大分社はその氏神であろう、としている。

この「稙田にあって豊門別命を祀る大分社」が西寒多神社ではないか、という推論である。渡辺氏は「西寒多神社(大分社)『延喜式』の名神大社で、豊後一の宮と称するが、古文書の証明はない。社形からすれば古墳であるかもしれない」と推測している。

このことと関係があるかどうか不明だが、西寒多神社境内に大分社がある。ご祭神は、豊日別命である。
大分君とは『古事記』や『日本書記』などにみえる古代大分の豪族とみられる人物である。『古事記』神武記に神武天皇の子供の神八耳命を祖とする地方豪族としてその名前が挙げられている。大分君恵尺と稚臣はともに、天智天皇の子大友皇子と弟の大海人皇子が皇位継承をめぐって争った「壬申の乱」(672年)の際、大海人皇子側の舎人として活躍した。舎人とは天皇の私兵、または近従として地方の豪族から派遣されていた人物。恵尺は後に天武天皇から外小紫位という破格の位を賜った。
古来、大分川流域で大規模な古墳が発掘されるたびに大分君の歴代の人物の墓ではないか、との推論が繰り返されており、未だ結論はみていない。ちなみに大分市大字三芳にある国史跡(昭和58年指定)の「古宮古墳」は被葬者を大分君恵尺に比定した古墳である。

この渡辺氏の推論を現地の人達からの聞き取りで補強しているのが、『おおいたの古墳と神社』の著者松尾則男氏である。「古代朝鮮文化を考える会」の会員でもある松尾氏は、地元の古老が子供の頃、老人達が西寒多神社の宮司を囲んで話している中に、「西寒多神社のお宮は古墳のあった場所ですよ」という言葉が出てきたことを覚えていると語ったことや、渡辺氏自身が明治まで代々宮守をしていた繰生一族から古墳であったと直接聞いた、と語っていたという話も紹介している。

一方、西寒多神社のある場所から尖底型の三個の壺が出土したと伝えられている。その壺は神社に所蔵されていたが、火災で砕けたとされる(現在は不明)。古墳だったことを直接裏付けるものではないが、可能性がないわけではない。

[Source: 御遷座六百年史]

※KAI調査中

Saturday, February 18, 2017

西寒多神社: 本宮社(奥宮)

祭神
・月読尊
・天照皇大御神
・忍穂耳尊
・大山昨尊
・軻遇突智命

西寒多神社の摂社・本宮社は同神社の西南にそびえる本宮山(標高603メートル)の東側山頂付近(9合目)に鎮座している。所在地は、大分市上判田である。

毎年3月20日と10月20日の春と秋の2回、祭りを行っている。西寒多神社からの宮司や宮総代の幹事ら10人弱と上判田地区のほぼ同数の氏子によって営まれている。
この本宮社へは、西寒多神社の神殿の裏から参道が続いており、大人の足で2時間くらいかかる。ふじヶ丘団地西側の霊山の麓を走る県道大分大野線(41号)を大野方向に進んで、途中(県民の森付近)から左折する林道を利用するか、国道10号線の判田から米良川に沿って安田を経て到達する道がある。
林道から本宮社に向かうと古い石造りの「一ノ鳥居」があり、「本宮社」の篇額が掲げられている。更に20メートルばかり東に進むと「二ノ鳥居」が立っている。文化15年(1818)建立、昭和19年(1944)年再建である。近くに高さ約4メートルの灯篭が2基立っている。その向こうの一段高い所に社殿があり、緩やかな階段を登ると両側に狛犬が飾られている。
本宮社が鎮座している場所は頂上より一段低く東側に噴き出た狭い尾根上で、南側はすぐに深い谷になっているため眺望に優れている。周囲は大分市によって「本宮社の森」と名付けられた原生林に覆われている。この原生林がなければ、東側や北側の展望も開かれそうな地形である。
社殿は南向きで、本殿と拝殿があり、その間を渡殿がつないでいる。入り口にある記念碑にあるとうに、昭和60年(1980)に鎮座1700年を記念して回収した。その際、拝殿はコンクリート造りにし、アルミサッシのガラス戸にされ、神社としての雰囲気が減じた。本殿は、本来の銅板葺きである。社殿のある場所は狭く、西側を除く3方向は急峻な崖になっている。境内の広さは、約4630平方メートル(1430坪)だが、周囲の官有林と一体となっている。

原生林の中に武内社が鎮座している。
本宮社の本来のご神体は、社殿から林道を西方向に戻った所にある巨石であったと思われる。高さが10メートル以上あり、数個の石が組み合わさって三角形をしている。重さは200トン前後ではないか、と見られる。この巨石はよそから運び上げてきたとの説もあるが、はっきりしたことはわからない。
昔、この巨石のすぐ下の谷間から清水が湧き出していたという。それは下流に流れ下って安田川となり米良川につながっていた。戦前、近くの農村では早魃の時にこの巨石の下から湧き出る「御神水」を汲んで持ち帰り、雨乞いの神事を行っていた、と伝えられている。

この巨石は、今にも倒れそうでありながら倒れないその形状や、山頂近くでの清水の涌出などが、古墳時代(4-7世紀)の人々の素朴な自然崇拝の対象となり、やがて神の依代として信仰へと発展した、と専門家は見ている。最初の頃は、この巨石の前にその都度、祭壇を設けて祭祀を執り行っていた(磐座)が、後に別の場所に社を設けて祭祀の場所としたと思われる。これが本宮社で、後に尾根伝いに中腹から麓へ降りて行った。お旅所というのは、中腹の祭祀の場所と見られている。

この本宮社は、明治4年(1871)村社に定められ、上判田の氏子たちによって管理や祭祀が行われていた。それ以前では、寛政2年(1790)に安田村と高取村の氏子が灯篭一対を奉納、更に文化15年(1818)には医師の鳥居が奉納されている。

西寒多神社には明治7年に宮司の田近陽一郎が教部大輔宍戸璣に提出した次のような本宮社の由緒報告が保存されている。

西寒多神社本宮社由緒書上

西寒多神社之本宮ト唱候社ハ本社ヨリ南ニ當登一里許之高山ニ而今本宮地獄 縁起ニハ上見獄ト有之 ト申山之頂ニ有之古来西寒多神社之本宮山ト申傳候天正三年旧記輯録之由ノ本社之縁起ニ神官皇后三韓ヨリ御愷陣之節此山ニ被為登國中御覧之特為其證白幡一本被立置候ヲ國人籬垣ヲ結尊崇仕候處威霊有之ニ依テ應仁天皇御宇?聞ヲ經式内宿祢下向有テ宮殿造営天照大神月讀尊天忍穂耳尊ヲ勧請有之其後敏達天皇二年本宮ヨリ西寒多山に霊異事有之ニ依繰生清海ト云者西寒多山ニ石寶殿ヲ建右三神ヲ表敬ス然ルニ乗馬ノ者神罰ヲ蒙ノ患アルヲ以テ右石社ヲ山麓ニ遷シ殿宇造営致シ是今之本社ノ旨ニ記有之候右縁起ノ文ハ難信候得共既ニ天正ノ頃ヨリ西寒多神社ノ故宮ト致候事ハ右縁起之文ニテ著明ニ御座候本宮社往古ハ大社ニテ可有之相考候事ハ今本社之旧境界之南外本社ヨリ四丁許登候處ニ廣キ平面之地有之今ハ畑ニテ字ヲ二王堂又大門ト呼申候此地本宮社之総門ニテ二王門有之候所ノ由又六合許登リテ高鳥ト申小邨有之高鳥トハ高鳥居ノ畧ニテ鳥居有之候カト申説有之高鳥?上嶮敷坂オカミオリ坂ト申候三神西寒多山へ下向ノ坂故神降ノ稱有之由又山山上ニ怪敷小穴三ツ有之穴ニテ汐ノ干満ニ随テ露水滴ルト申事ニ御座候右ニ付本宮社建物之形容本社姿姿勢図之上層ニ書加上進仕候以上

明治七年十一月十五日

教部大輔宍戸璣殿

西寒多神社宮司 田近陽一郎

[Source: 御遷座六百年史]

Friday, February 17, 2017

西寒多神社: 絵図・古写真

明治5-6年頃に描かれた形容姿勢図
明治7-8年頃の境内見取り図
明治時代
大正15年頃の境内見取り図
大正時代か
大正15年頃の境内見取り図

平成20年頃の境内見取り図
明治時代初期の境内。樹木がうっそうと茂っている。
明治時代初期。現在のフジ棚には、佐藤綾太郎の造り酒屋があった。
ご神体を一時的に遷座する仮殿(大正時代)
神庫

(作業途中 Last updated: 2017.2.17)

西寒多神社: 年表(明治時代/1878-1912)

明治11年2月19日(1878)
武内社を操生社に改称が許される

明治11年3月26日(1878)
神輿購入のため野尻官吾氏は佐藤綾太郎氏同伴上阪

明治11年4月15日(1878)
大雨

明治11年4月18日(1878)
17日に到着した神輿の上棟祭執行

明治11年5月9日(1878)
神庫を建築、上棟祭(17年9月祭器庫に変更願出る)

明治11年6月22日(1878)
24日まで3日間雨乞い(村中)

明治11年8月19日(1878)
神小屋を取り畳み、跡地に神饌殿の移設許可となる

明治11年10月21日(1878)
本宮社が摂社に定められる

明治12年8月(1879)
官林立木の払い下げの許可(14年5月伐木持ち出し許可)

明治12年9月3日(1879)
三日間祈雨祭(当村産子願出)

明治12年10月23日(1879)
24日までコレラ鎮過賽謝臨時祭

明治12年11月5日(1879)
八幡田神幸所に石灯篭落成

明治13年2月2日(1880)
午前11時2分地震

明治13年3月18日(1880)
27日まで悪病退除祭

明治13年4月15日(1880)
八幡田神幸所の神殿・石檀などを釘宮清潔衛が寄進

明治13年4月24日(1880)
23日に到着した神輿の上棟祭執行

明治13年5月3日(1880)
神輿調達につき御酒披露(旦ノ原甲斐綱太郎・祝園一門他)

明治13年7月11日(1880)
寒暖計が華氏95度

明治14年6月20日(1881)
正午寒暖計、85度を示す

明治14年9月26日(1881)
午後2時より風立、11時最もはげし

明治15年1月(1882)
神官の教導職業務が廃止される

明治15年1月30日(1882)
野尻官吾より買い入れた鳥居用材(杉2本)を伐木

明治15年8月21日(1882)
大風雨で八幡田神幸所の神殿転覆・流出

明治15年9月19日(1882)
新築神殿へ御遷座式執行

明治17年2月(1884)
境内末社7社・村内5社を境内合併社に合祀、18年1月に県に届出

明治17年5月(1884)
西寒多神社協会惟神講社に改める

明治17年8月30日(1884)
県が寄付建物(拝殿・神饌所・神庫)を引き取り。残工事は県施工

明治17年9月4日(1884)
暴風のため御仮殿の屋根が破損、午後11時神饌所へ御遷座

明治18年2月26日(1885)
本殿以下竣工、遷宮式執行  3月3日まで臨時祭

明治18年6月17日(1885)
烈風大雨、大洪水

明治18年8月(1885)
惟神講社を一宮講社に改める

明治18年9月5日(1885)
午後風烈、6日も風雨はげし

明治18年10月15日(1885)
社務所が竣工

明治19年6月(1886)
官費で中門、神庫、透塀、内構玉垣を改造

明治19年8月(1886)
2日、9日、20日 祈雨祭

明治19年12月21日(1886)
佐藤綾太郎・佐藤来造両名が宅地と田1反7畝12歩を寄付

明治21年1月14日(1888)
有栖川宮殿下が御来県、毛利宮司が大分町の宿舎で拝謁

明治22年2月11日(1889)
憲法発布・皇室典範御治定奉告祭

明治22年7月23日(1889)
大雨、3日間日乞祭執行

明治23年3月4日(1890)
神庫屋根修繕落成

明治23年7月23日(1890)
3日間日雨乞い祈祷

明治23年10月15日(1890)
西寒多神社維持会の設立認可

明治25年4月17日(1892)
郷ノ城御旅所への御神幸に変更(19日まで)

明治25年8月(1892)
23日、24日、25日、26日、28日 祈雨祭

明治25年10月19日(1892)
御仮殿屋根葺き替え竣功(請負人・旦ノ原 兼吉)

明治26年1月11日(1893)
八幡田河原御仮殿を郷ノ城河原へ移す

明治26年7月(1893)
9日、10日、12日、13日、14日、18日、19日、26日、27日、28日,
29日、31日 祈雨祭

明治27年3月8日(1894)
大雨

明治27年7月28日(1894)
武運長久祈願臨時祭(30日まで) (日清戦争)

明治27年9月24日(1894)
官軍大勝利奉告祭

明治27年10月11日(1894)
敵国降伏祈願祭

明治28年2月19日(1895)
東稙田村戦勝祝宴会

明治28年5月22日(1995)
日清戦争講和成立祭典(旦ノ原・鴛野・上寒田。田尻4村代表)

明治28年7月24日(1895)
大雨且つ雷鳴、郷ノ城御仮殿転倒

明治29年4月28日(1896)
郷ノ城の仮殿新築上棟(5月2日祓式執行)

明治29年6月2日(1896)
県庁からの日清戦争戦利品を受領

明治26年6月28日(1896)
地方軍人歓迎会の宴

明治30年3月29日(1897)
神衣替祭斎行(4月7日まで7日間)(再興)

明治34年1月7日(1901)
神殿屋根葺き替え

明治35年7月27日(1902)
御仮殿の屋根全部葺き替え竣功

明治35年9月28日(1902)
大風雨で崖崩壊・倒木

明治35年10月6日(1902)
拝殿屋根葺き替え

明治36年8月(1903)
14日、27日、28日 祈雨祭

明治36年9月(1903)
2日、3日、6日 祈雨祭

明治36年10月25日(1903)
境内で寒田・田尻・両学校の運動会が開かれた

明治36年12月14日(1903)
社務所並びに里楽殿屋根漆喰竣功

明治37年2月24日(1904)
宣戦布告祭、勅使大久保知事が松苗植栽(日露戦争)

明治37年8月(1904)
4日、5日、6日、11日、12日、13日、14日 祈雨祭

明治37年10月14日(1904)
社前で寒田・田尻両小学校の運動会が開かれた

明治38年2月24日(1905)
皇軍全勝祈願祭および勅語奉読式

明治38年10月20日(1905)
戦捷奉祝祭(22日まで)

明治38年12月15日(1905)
平和克服奉祝祭、勅使(小倉知事)参向、参拝者多数

明治39年2月11日(1906)
日露戦役戦没者招魂祭(村内出身者5名)

明治39年12月(1906)
社務所を改築(矢野兵太郎)

明治39年12月(1906)
日露宣戦奉告記念碑建立

明治40年2月10日(1907)
降雪夜に激しく竹林に被害受ける。近来にない積雪

明治40年8月3日(1907)
県庁から日露戦争戦利品が下付される

明治40年10月16日(1907)
下寒田に鳥居(木造)建設、上棟祭執行

明治40年11月29日(1907)
透塀修繕・鳥居・仮殿屋根葺き替え工事竣功(三宮繁造)

明治41年8月10日(1908)
9日午後8時より大雨で出水、神庫並に神楽殿屋根破損

明治42年6月3日(1909)
日露戦争記念碑式と招魂祭

明治42年8月21日(1909)
鬼の歯形石そばの松樹折倒(長17.5間、廻り1丈)

明治43年11月12日(1910)
透塀・仮殿修繕(9月18日発注・三宮繁造)

明治44年4月18日(1911)
戦利品陳列舎落成

明治44年8月15日(1911)
暴風雨 下寒田の鳥居倒壊 9月9日復旧工事着手

明治45年3月(1912)
下半田の無格社「神降社」を本宮社に合併が認められる。

西寒多神社: 年表(869-1863)

応永15年(1408)
本宮山から現在地に御遷座

永禄年間?(1500年代)
本社再興(西寒多神社略記)

天正14年(1586)
社殿が島津軍の侵攻で破壊される(西寒多神社略記)

天正16年(1588)
社殿が大友義統によって再興される(西寒多神社略記)

文禄2年(1593)
神領を太閤検地によって没収される(西寒多神社略記)

慶長14年(1609)
寒田一宮、再興(旧宮大工家・建築記録)

天和4年春(1648)
神殿が再建される(棟札)(西寒多神社略記)

享保3年3月(1718)
神主の佐藤和泉守家長が西寒多神社略記を記す

享保6年9月(1721)
神殿が再建される(棟札)(西寒多神社略記)

享保6年冬(1721)
「鎮国一宮」の扁額を掲げる(扁額)

享保13年2月22日(1728)
延岡藩牧野越中守の名代で吉田仙右衛門が参詣、初穂鳥目五十疋

享保18年2月11日(1733)
延岡藩村田次右衛門が代参、白銀二枚・玄米二俵(西寒多神社略記)

延享3年3月(1746)
神殿が改築される(棟札)(西寒多神社略記)

宝暦8年(1758)
寒田一宮、屋根カネ葺きとなる(歴・旧宮大工・建築記録)

宝歴10年1月(1760)
神殿が改築される(棟札)(西寒多神社略記)

明和4年(1767)
天神社に寒田村の佐藤喜三衛門ほか二名が石灯篭一基を奉納

寛政2年(1790)
本宮社に安田村・高取村氏子が石灯篭一対を奉納

文化4年(1807)
寒田一宮の鳥居立つ(歴・旧宮大工・建築記録)

文化10年3月(1813)
延岡藩の待つ財規忠治保孝が石灯篭一基を寄進

文化15年1月(1818)
本宮社に右鳥居一基が奉納される

文政13年9月(1830)
佐藤清右衛門が石灯篭一基寄進

天保2年(1831)
神衣替祭斎行(天保3年とも)

天保11年冬(1840)
伊予国立石飛天神宮神主を祭主に招き一万度祓祭斉行、碑建立

弘化4年4月(1847)
神楽殿が再興される(棟札)

嘉永7年2月(1854)
本宮社氏子が石灯篭一対を奉納

文久2年春(1862)
万年橋が架設される(棟札)

文久3年(1863)
石鳥居一基が奉納された(現在は合併社前)

西寒多神社: 御由緒

旧国幣中社、豊後国一之宮として広く知られる西寒多神社の創祀は古い。社伝によると、神功天皇が三韓に兵を進めて帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸して四方の国々を御覧になり、そこに一本の白旗を立ててお帰りになった。人々はそれを敬ってその瑞垣を結び、聖地として崇めるようになった、伝えられている。

やがて応神天皇の御代になり、人々はこの地に宮殿を建立することになり、朝廷に願い出て天皇の勅許を得た。勅を奉じた武内宿禰は応神9年、豊後国に下向して宮殿の建立にあたった。これが西寒多神社の創祀と伝えられる。4世紀のこととされている。

さらに7世紀の中頃、藤原鎌足が百済救済のため豊前国仲津郡まで来た時、悪夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老朽化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した。貞観11年(869)、西寒多神社は朝廷から従五位下の神階が授けられ、延喜5年(905)に勅命により編纂された延喜式神名帳で豊後唯一の式内大社とされた。

以後、在地の有力武将の信仰あつく、大友家初代能直を初めとする歴代大友氏の崇敬を集め続けた。応永15年(1408)3月、大友家第10代の親世は崇敬のあまり社殿を山麓の現在地に遷した、と伝えられる。

江戸時代は、この地を領した延岡藩の牧野氏、次いで内藤氏の信仰厚く、たびたび社殿の修築が行われ藩士による灯篭などの寄進もあった。また「豊後区一ノ宮」と称されていた。

明治4年(1871)4月、新たに設けられた社格制度で国幣中社に列格。昭和20年(1945)12月、社格制度の廃止に伴い別表神社となり、宗教法人となり今日に至っている。

Tuesday, February 7, 2017

大分合同新聞砲

ここ数日沢山の方達に声を掛けて頂き、頭を下げて下さる方が多くなった。

「大分合同新聞砲」の効果であることは明らかである。

通常のゴミ拾いルートでお会いする方々は、小生が西寒多神社の奥宮を掃き清め、ゴミを拾いながら戻ってくることは知らず、西寒多神社ルートの方々は、週6日15kmゴミを拾っていることは知らなかった。

手を合わせて下さる方もいれば、「徳をわけちょくれ」と腕を触って下さるお婆さんも。


良いことはなかなか伝わらないが、悪いことはあっという間に拡散してしまう。

小生が悪事を犯せば、「大分合同新聞砲」により翌日には多くの大分県民の知るところとなる。

20,000 kmのゴミ拾いなどあっと言う間に偽善行為と化してしまい、「西寒多の神」には「奥宮出禁」を通達されることだろう。

ゴミ拾い20,000 kmを台無しにするのか・・・

「西寒多の神」を裏切ってしまうのか・・・

小生の行動(活動)に理解を示し、声を掛けて頭を下げて下さる方々の気持ちをポイ捨てしまうのか・・・

今の小生には到底できないことだ。


猟奇的殺人事件のプロファイリング本を読んでいると、自分にあてはまる所も多く、ちょっと不安な気持ちになる時がある。

人は良いことをしながら悪い事をし、悪い事をしながら良いことをしている
~長谷川平蔵/藤枝梅安~

良い行いをし、決して罪を犯さない正しい人などこの世にいない
~旧約聖書「伝道の書」より~

小生は良い人間ではないが、極悪人かと言われるとそうでもない。
気を緩めるとハイドの顔が現れ、心に迷いが生じると自分に嘘をつくようになり、鏡に映った自分の目から視線を逸らすようになる。

聖人君子になろうとは思わないが、自分の中に共存するジギルとハイドを客観的に見れるよう努力している。

人間の性根はそう簡単に変わるものではなく、常に自分を疑いの眼で見ている。

それが、「孤高のゴミ拾い」「孤高の登拝」を続けられている(やめられない)理由の一つである。

「大分合同新聞砲」のおかげで、自省・自戒の念が今まで以上に強くなった自分がいる。

感謝。
***
さて、その「大分合同新聞砲」を「大分にゴミを20,000 km拾っている人がいる」というトピックだけで終わらせていいのだろうか。

あと何千キロ、あと何トン拾い歩けば、大分の町が心身ともに美しくなるのだろうか。

苦悩している。
美徳(excellence)は、訓練と習慣の賜物である。 
我々は、あらかじめの美徳が具わっていたり、卓越した能力があるからこそ正しい行動ができるのではなく、正しい行動をするからこそ、美徳や卓越した能力が得られるのである。 
我々が何であるかは、我々が繰り返し何を行ったかによって決まるのである。 
それゆえ、美徳は行いではなく、習慣なのである。 
~アリストテレス~

Blogを新たに開設しました

My Bag is マニラ封筒 今後とも宜しくお願い致します。