Friday, February 17, 2017

西寒多神社: 御由緒

旧国幣中社、豊後国一之宮として広く知られる西寒多神社の創祀は古い。社伝によると、神功天皇が三韓に兵を進めて帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸して四方の国々を御覧になり、そこに一本の白旗を立ててお帰りになった。人々はそれを敬ってその瑞垣を結び、聖地として崇めるようになった、伝えられている。

やがて応神天皇の御代になり、人々はこの地に宮殿を建立することになり、朝廷に願い出て天皇の勅許を得た。勅を奉じた武内宿禰は応神9年、豊後国に下向して宮殿の建立にあたった。これが西寒多神社の創祀と伝えられる。4世紀のこととされている。

さらに7世紀の中頃、藤原鎌足が百済救済のため豊前国仲津郡まで来た時、悪夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老朽化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した。貞観11年(869)、西寒多神社は朝廷から従五位下の神階が授けられ、延喜5年(905)に勅命により編纂された延喜式神名帳で豊後唯一の式内大社とされた。

以後、在地の有力武将の信仰あつく、大友家初代能直を初めとする歴代大友氏の崇敬を集め続けた。応永15年(1408)3月、大友家第10代の親世は崇敬のあまり社殿を山麓の現在地に遷した、と伝えられる。

江戸時代は、この地を領した延岡藩の牧野氏、次いで内藤氏の信仰厚く、たびたび社殿の修築が行われ藩士による灯篭などの寄進もあった。また「豊後区一ノ宮」と称されていた。

明治4年(1871)4月、新たに設けられた社格制度で国幣中社に列格。昭和20年(1945)12月、社格制度の廃止に伴い別表神社となり、宗教法人となり今日に至っている。

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