Thursday, February 23, 2017

西寒多神社: 御祭神の変遷

西寒多神社の祭神は、本来は当地域の住民から神として尊崇され、大切に祭られた産土神(うぶすなかみ)であったものと思われる。産土神とは、生まれた土地の守り神、あるいは村の鎮守、氏神様のことである。現在は主祭神を「西寒多大神(天照皇大御神)」と統一表記しているが、これは長い歴史の中で、時代の変遷に伴って変化した結果であろう。

西寒多大神が、この地域の産土神であることは、西南の背後に聳える本宮山の山頂に旧祠があることからも裏付けられる。山の名前自体がそれを物語っており、山頂の旧祠の近くには巨石があり、その近くには泉が沸いていて、かつては祭祀を執り行っていたという伝承もある。言い換えれば、この本宮山を神体山として自然発生的に成立した神社であろうと思われる。古来、人々はこの自然発生的な産土神に五穀豊穣や家内安全、国家平穏など素朴な祈りを捧げてきたのである。

神階授受や延喜式の記載を見ると、西寒多神社が主祭神とされており、平安時代初期までは西寒多神が主祭神であったことが分かる。しかし、そこにいつ頃から天照大御神など天皇家の祖先神が入ってきたかは、はっきりとはわからない。

『西寒多神社縁起』(天正3年[575]に旧記を書写したものを、元禄14年[1701]に平松利重という人物が再度書写表装して奉納したもの。安永十年[1781]に神主の藤原尚伴がまた移したと記している)によると、応神天皇の勅によって武内宿禰が西寒多山に最初に祀った神は三座で、正面が天照大御神、左相殿が月読尊、右相殿が天忍穂耳尊だったという。

その後、西寒多神社が衰退して久しい頃、今度は中臣鎌足の夢枕に武内宿禰が立って神社再興を命じたので、天智2年(662)西寒多川の上流に社殿を建てた、とある。その時に祀った神は神功皇后、応神天皇、武内宿禰の三座で、上代に祀った三神をこの時に改めた、となっている。このように永い歴史に中で、祭神の座を天照大御神など天皇家の祖先神や八幡信仰の祭神、藤原氏の祖先神などが占めるようになったのであろう。

しかし、祭神がいつ頃どのような変遷を辿ったかは不明で、推測する以外にない。天正3年(1575)以降、安永10年(1781)頃は八幡神の時代だったと思われる。更に遡れば14世紀の中頃(南北朝初期)には、既に八幡神を祀っていた可能性がある。

江戸時代にまとめられた『豊後志』(著書、年代不詳)には「西寒多神社 在碩田郡 祭神三座 神功皇后 応神天皇 武内宿禰」とあり、西寒多神の名前はない。

幕末の頃は八幡神ではなく、天照大御神に戻っていたことは、明治2年(1869)の『神社明細牒』からもわかる。同書によると、祭神は大日ルメ命(天照大御神の別名)、月読命、天忍穂耳命の三神で、相殿は品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、足仲彦命(仲哀天皇)となっている。

明治以降も主祭神の変遷は続いたことがうかがえる。

明治32年(1899)6月21日付けの大分県内務部長丸山重俊が、西寒多神社宮司毛利登に出した次の通牒によると、西寒多神社が前年10月に内務大臣に対して祭神を応神天皇に変更したいと建議したことがわかる。しかし、その理由が明確でなかったのか、それは認められず、従来通り西寒多神社を祭神として唱えるよう求められている。

客年十月西寒多神社祭神決定ノ件内務大臣へ建議の候處今般右建議ノ事由ノミニテハ未タ其祭神ヲ応神天皇ト訂正スルニ付従来ノ通西寒多神社ト唱ヘ置カル方可然段其筋ヨリ通牒有之候条此段及御移牒候也

内務部長

明治三十二年六月二十一日

大分縣書記官丸山重俊

西寒多神社宮司毛利登殿


しかし、明治37年12月に内務省に提出した神社明細の控には西寒多神社は消えて次のようになっている。

本殿

月讀尊
天照大御神
天忍穂耳尊

相殿

應神天皇
神功皇后
武内宿禰

殿内所在諸神

大直日神
神直日神
天児屋根神
伊弉許大神
 大年神
 倉稲魂神
 天思兼神
 経津主神
 誉田別尊
 軻遇突智大神
 伊弉冊大神

これに基づいて明治44年(1911)11月に大分県内務部長川口彦治からの祭神中配祀の神名等の調査報告要請に対して次のような文書を提出している。


本月十四日庶第ニ九八七号ノ一ヲ以テ御照會二相成候事項左之ニ候也

明治四十四年十一月二十六日

西寒多神社宮司 遠山正雄

内務部長

大分縣事務官 川口彦治殿


配祀ノ神名(明治三十七年十二月附ヲ以テ内務省へ進達セシ當社明細書控ニヨル)

本殿

月讀尊
天照大御神
天忍穂耳尊

相殿

應神天皇
神功皇后
武内宿禰

殿内所在諸神

大直日神
神直日神
天児屋根神
伊弉諾尊
大年神
倉稲魂神
天思兼神
経津主神
譽田別尊
軻遇突智神
伊弉冊尊

配祀ノ年月日

コレハ凬ク不明ニ帰シタルモノ、如ク近時大ニ研究調査ニ苦心スルモ別ニ徴証トスベキモノサヘモ発見セズ


この祭神名は、大正10年(1921)12月に提出した神社明細帳にも同じように記載されている。

しかし、昭和7年(1932)発行の『国幣中社西寒多神社略記』では「祭神西寒多大神一座を 社殿にては天照大神」としており、同十三年版の『神道大辞典』も「西寒多神を主神とし、月読尊、天忍穂耳尊、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、大直日神、天児屋根命、伊弉冊尊、大歳神、倉稲魂神、天思兼神、経津主神、軻遇突知大神、を記す。但し社殿によれば主神は天照皇大神であるという」となっている。

戦後の改訂版も「主神西寒多大神は天照大神にましますといわれ」という書き方をしており、現在の「主祭神 西寒多大神(天照皇大御神)」に至っている。

[Source: 御遷座六百年史]

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