Tuesday, February 21, 2017

西寒多神社: 古墳説/二つの大分社説

西寒多神社が鎮座している場所は古墳の跡ではないか、という説がある。勿論、古文書などの裏付けがあるわけではなく、あくまでも推論である。

西寒多神社は南側の小高い丘を削った段丘の上に北向きに鎮座しているが、この南側、つまり神殿の裏側の崖に横穴墓があったのではないか、という推測である。実際、西寒多神社の東側の敷戸地区などの丘陵地には数多くの横穴墓が現存しているほか、前方後円墳と思われる墓地もある。敷戸神社や清秦寺もその跡地ではないかとという見方もある。この敷戸神社は、かつて「鬼塚」と呼ばれていた所で、江戸時代までは大分郡内の名旧跡となっていた。現在は、小さな公園になっており鳥居や社殿の基壇跡、宝筺印塔などが残っている。

西寒多神社の社地が「形からすれば古墳であるかもしれない」と語ったのは大分大学の故渡辺澄夫教授である。渡辺氏は大分市木の上地区にあった御陵古墳(昭和44年に宅地造成で消失)が、全長80メートルもある巨大なもので、『古事記』に登場する大分君の墓ではないか、という説が出てから問題が大きくなった、としている。更に古代氏姓制度研究家大田亮氏の『豊日誌』を引用して、「大分社」が二つあり、もう一つは稙田にあって豊門別命(とよとわけのみこと)を祀り、もう一つは津守にあって大分君稚君(おおいたのきみわかみ)を祀るとして、二人とも大分国造大分君の歴代の人物で、大分社はその氏神であろう、としている。

この「稙田にあって豊門別命を祀る大分社」が西寒多神社ではないか、という推論である。渡辺氏は「西寒多神社(大分社)『延喜式』の名神大社で、豊後一の宮と称するが、古文書の証明はない。社形からすれば古墳であるかもしれない」と推測している。

このことと関係があるかどうか不明だが、西寒多神社境内に大分社がある。ご祭神は、豊日別命である。
大分君とは『古事記』や『日本書記』などにみえる古代大分の豪族とみられる人物である。『古事記』神武記に神武天皇の子供の神八耳命を祖とする地方豪族としてその名前が挙げられている。大分君恵尺と稚臣はともに、天智天皇の子大友皇子と弟の大海人皇子が皇位継承をめぐって争った「壬申の乱」(672年)の際、大海人皇子側の舎人として活躍した。舎人とは天皇の私兵、または近従として地方の豪族から派遣されていた人物。恵尺は後に天武天皇から外小紫位という破格の位を賜った。
古来、大分川流域で大規模な古墳が発掘されるたびに大分君の歴代の人物の墓ではないか、との推論が繰り返されており、未だ結論はみていない。ちなみに大分市大字三芳にある国史跡(昭和58年指定)の「古宮古墳」は被葬者を大分君恵尺に比定した古墳である。

この渡辺氏の推論を現地の人達からの聞き取りで補強しているのが、『おおいたの古墳と神社』の著者松尾則男氏である。「古代朝鮮文化を考える会」の会員でもある松尾氏は、地元の古老が子供の頃、老人達が西寒多神社の宮司を囲んで話している中に、「西寒多神社のお宮は古墳のあった場所ですよ」という言葉が出てきたことを覚えていると語ったことや、渡辺氏自身が明治まで代々宮守をしていた繰生一族から古墳であったと直接聞いた、と語っていたという話も紹介している。

一方、西寒多神社のある場所から尖底型の三個の壺が出土したと伝えられている。その壺は神社に所蔵されていたが、火災で砕けたとされる(現在は不明)。古墳だったことを直接裏付けるものではないが、可能性がないわけではない。

[Source: 御遷座六百年史]

※KAI調査中

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