ここ数日沢山の方達に声を掛けて頂き、頭を下げて下さる方が多くなった。
「大分合同新聞砲」の効果であることは明らかである。
通常のゴミ拾いルートでお会いする方々は、小生が西寒多神社の奥宮を掃き清め、ゴミを拾いながら戻ってくることは知らず、西寒多神社ルートの方々は、週6日15kmゴミを拾っていることは知らなかった。
手を合わせて下さる方もいれば、「徳をわけちょくれ」と腕を触って下さるお婆さんも。
良いことはなかなか伝わらないが、悪いことはあっという間に拡散してしまう。
小生が悪事を犯せば、「大分合同新聞砲」により翌日には多くの大分県民の知るところとなる。
20,000 kmのゴミ拾いなどあっと言う間に偽善行為と化してしまい、「西寒多の神」には「奥宮出禁」を通達されることだろう。
ゴミ拾い20,000 kmを台無しにするのか・・・
「西寒多の神」を裏切ってしまうのか・・・
小生の行動(活動)に理解を示し、声を掛けて頭を下げて下さる方々の気持ちをポイ捨てしまうのか・・・
今の小生には到底できないことだ。
猟奇的殺人事件のプロファイリング本を読んでいると、自分にあてはまる所も多く、ちょっと不安な気持ちになる時がある。
人は良いことをしながら悪い事をし、悪い事をしながら良いことをしている
~長谷川平蔵/藤枝梅安~
良い行いをし、決して罪を犯さない正しい人などこの世にいない
~旧約聖書「伝道の書」より~
小生は良い人間ではないが、極悪人かと言われるとそうでもない。
気を緩めるとハイドの顔が現れ、心に迷いが生じると自分に嘘をつくようになり、鏡に映った自分の目から視線を逸らすようになる。
聖人君子になろうとは思わないが、自分の中に共存するジギルとハイドを客観的に見れるよう努力している。
人間の性根はそう簡単に変わるものではなく、常に自分を疑いの眼で見ている。
それが、「孤高のゴミ拾い」「孤高の登拝」を続けられている(やめられない)理由の一つである。
「大分合同新聞砲」のおかげで、自省・自戒の念が今まで以上に強くなった自分がいる。
感謝。
***
さて、その「大分合同新聞砲」を「大分にゴミを20,000 km拾っている人がいる」というトピックだけで終わらせていいのだろうか。
あと何千キロ、あと何トン拾い歩けば、大分の町が心身ともに美しくなるのだろうか。
苦悩している。
美徳(excellence)は、訓練と習慣の賜物である。
我々は、あらかじめの美徳が具わっていたり、卓越した能力があるからこそ正しい行動ができるのではなく、正しい行動をするからこそ、美徳や卓越した能力が得られるのである。
我々が何であるかは、我々が繰り返し何を行ったかによって決まるのである。
それゆえ、美徳は行いではなく、習慣なのである。
~アリストテレス~
No comments:
Post a Comment