Thursday, March 9, 2017

西寒多神社: 国家神道の歩み(明治維新~太平洋戦争)

明治維新は、王政復古と祭政一致の精神に基く国家の樹立を目標とするものだった。その思想的中核は尊皇思想と神道思想であり、新政府樹立以前から「神武創業の古」に服するべく、神道を国教化しようという動きがあった。大政奉還、王政復古の数ヵ月後の慶応4年(明治元年/1868)3月、政府は神祇官の復興や「別当社僧復飾令」を初めとする一連の法令つまり「神仏分離の令」が布告され、神道による国民強化を強く打ち出した。祭政一致を実現するため律令時代にならって太政官とは別に神祇官を設けたのである。

この神仏分離令によって神社と寺院、神職と僧侶を完全に分離した。具体的には神職の世襲を禁止するとともに神宮寺や宮寺の建立や仏像を神体としてはならないこと、神仏習合的な祭神を禁止し、牛頭天王、菩薩、権現などの名称を神社の祭神として用いることができなくなった。また、神社で僧侶の外見をして別当や社僧と名乗っていたものは、還俗したうえで神主、社人として神社に奉仕するか、還俗しない者は神社を退去しなくてはならなくなった。

西寒多神社では江戸期、佐藤一族が歴代神主をつとめてきたが、これにより世襲が廃止され、外部から赴任してくることになった。

次いで明治2年(1869)7月、神祇官を太政官から独立させて、太政官の上に置いた。そして同10月に宣教師を神祇官に所属させ、神道の不況に当たらせた。同3年1月に「大教宣布」が出されて、「惟神の道」の強化が求められた。長年続いた神仏習合は仏教伝来とともに始まり、民間信仰レベルではまったく判然としないほど密接に結びついていた。

この一連の神仏分離政策で、民衆の行き過ぎた廃仏毀釈運動が広がり、政府は神職に対して廃仏を否定し、行き過ぎた運動を注意した。しかし、地方では地方官によって廃仏毀釈運動が進められ、多くの寺院や仏像が破却された。

明治4年(1871)5月14日、近代社格制度がスタートした。神社の国家管理を急速に進め、神社を「国家の宗祀」の場と位置づけ、神職の世襲を禁止し、主要神社神職の公務員化を推し進めたのである。更に、律令神祇制度を参考にして新たに神社制度を整備した。太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」によって、全国の神社を大きく官社と諸社に分けた。

この時、官社には97社が列格されたが、この官社は神祇官が祀る官幣社と地方長官が祀る国弊社に分けられ、いずれも大社、中社、小社に区分された。官幣社は天皇家にゆかりの深い神社が多く、国弊社にはかつての一宮、つまりその地方で特に尊崇されていた神社が多く含まれていた。両方の間に実質的に差異はなかったが、官幣社には例祭に皇室から幣帛料が出されたのに対して国弊社には政府から支出された。

また当初、菊の御紋は官幣社のみに許されていたが、明治7年に国幣社の社殿にも許可されるようになった。その翌年、これとは別に国難に際して勲功を立てた功臣を祭った神社を別格官幣社とする制度が導入された。

こうした近代社格制度によって大分県関係では西寒多神社のみが国幣中社に位置付けられた。九州で国幣中社に列格されたのは西寒多神社以外では佐賀県の田島神社と長崎県の住吉神社と海神神社の三社だった。また、宇佐神宮が別格官幣大社に列せられた。

官幣社、国幣社の名称は延喜式の社格を踏襲したものである。諸社は府社、県社、郷社および村社などからなっていた。府、県社、郷社は郷村の産土神社とされた。郷社の付属下に村落の氏神を置き、これを村社としたが、村社に至らなかったものは無各社となった。

同年8月、神祇官が廃止されて神祇省が設けられたが、翌5年3月にはその神祇省に代わって教部省が設置され、神道国教主義に基く国民強化のための統一的組織的な統括機関となった。この教部省は神官や僧侶を教導職に任命し、一大教化事業を開始した。教導職は、

第一条、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事

第二条、天理人道を明二スベキ事

第三条、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシム可キ事

という「教則三条」を奉じて教化活動すべきものとされた。西寒多神社にはその実物が保存されている。
大教宣布の機関として東京に大教院、地方に中教院が設置され、各神社には説教所が設けられて小教院とみなした。

神官は神社の祭祀を執り行うほか、国教である神道の不況に努めることが義務付けられていた。その神官についても祭主、大宮司、少宮司、禰宜、主典、官掌などの階級が設けられ、国家組織の中に組み込まれた。官国幣社の神官は当初を本官だったが、明治20年(1887)に待遇官吏となり神職と呼ぶようになった。しかし宮司1人と権宮司1人は奏任官待遇で、内務大臣の奏請により内閣において任命。禰宜1人と主典、官掌は判任待遇で地方長官(知事)が任命した。府県社や郷社の神職は氏子総代の推薦により地方長官が任命した。

大分県内では6年3月に僧侶24人が、次いで同年6月に神道側から西寒多神社禰宜首藤宗令(周三)ほか主要神社の神官、神職32人が長崎に招集されて指導をうけたのち教導職試補に命じられた。そして、神仏各宗合同で地域ごとに布教を始めた。

明治7年(1874)10月には現在の大分市の江雲寺に神道と仏教7宗派合同の教育機関として中教院を発足させた。院長6人、副院長11人で、そのうち西寒多神社の神官が院長に3人、副院長4人入っており、神道側の主導権のもとに運営されたことがわかる。

西寒多神社にも小教院が設置された。当時の見取り図を見ると、現在の神楽殿と厳島社の間に「小教院」の建物が描かれている。おそらく既存の建物を充てたものと思われる。しかし、神仏分離運動が進み、8年2月に大教院が解散したのに伴って中教院や小教院も解散した。
明治8年、式部寮によって「神社祭式」が制定された。これがいわゆる「明治祭式」で、官国幣社の祈念祭、新嘗祭、官国幣社列祭の祭式、祝詞、神饌について細かく規程した。また官国幣社がすべて行うものとして元始祭、後月輪東山陵(孝明天皇)遥拝、紀元節、畝傍山東山陵(神武天皇)遥拝、新嘗祭遥拝、仮殿遷座、本殿遷座が掲げられ、それぞれの祭式次第、祝詞などが詳細に定められた。参拝の作法「二拝二拍手一拝」が定められた。西寒多神社では同年7月に遥拝所の設置を申請して、11月に認められており、おそらくこの「神社祭式」の制定に対応したものと思われる。

教部省は明治10年(1877)1月まで存続したあと、新設の内務省社寺局に移管された。同15年には神官の教導職を廃止し、17年には官国幣社の神官が葬儀に関与することを禁じた。また、教派神道の神道事務局からの独立を認め、僧侶や神道各教派教師の任免や進退を全て各教派宗派の管長に委ねた。これらは神社神道を非宗教家するための体裁を整えるためだった。

明治20年(1887)3月、政府は7年にスタートさせた官国幣社経費定額制度を改めて官国幣社保存金制度を導入し、全官国幣社に対して向こう16年間一定額を交付し、その積立金を神社維持の資本金とさせ、15年後には幣帛料を除いて国庫からの支出を打ち切ることを予告した。この制度の変更が、西寒多神社の運営に実際にどのような影響を及ぼしたのかは不明である。西寒多神社にはこれらの経費と関係すると思われる次の文書が残されていう。


西寒多神社

明治十一年度神社経費金之義十年十二月第九拾壱号ヲ以神官ヲ廃シ更ニ祭主以下職員官等想定候ニ付テハ神官俸給及ヒ賜饌料其他減額可相成分ヲ除之外総テ同年五月第四拾弐号達之通相定候条成規ニ照準シ右ヲ以一周年ノ費額支辧可致旨太政官ヨリ被相達候条及達示候事

但本文減額ニ係ル文及大科目金流用ヲ要スル分ハ往復日数ヲ除ク之外七日限リ取調可差出来事

明治十一年五月九日

大分縣権令香川眞一 印


明治27年(1894)、官国幣社の祭祀が大祭と公式祭祀の2種類に分けられた。大祭は祈年祭、新嘗祭、例祭、臨時奉戴式、本殿遷座など、公式祭祀は原始祭、紀元節、大祓、遥拝式、仮殿遷座、神社由緒祭などで、大祭には勅使あるいは地方長官が参向して神饌幣帛料を供進することになった。これは祭祀大権は天皇の統治権の一つとの考えのもとに、それを勅使や地方長官に代替発動させるものだった。

明治後半の西寒多神社への勅使参向事例としては、明治22年2月21日の憲法発布奉告祭に県書記官関慎吾、37年2月24日の日露戦争宣戦奉告祭に県知事大久保利武、38年12月15日の平和克復奉告祭に県知事小倉久などがある。

明治27年、内務省訓令で祭祀区分が官国幣社の大祭と官国幣社の公式の祭祀、府県社以下神社の大祭及び公式の祭祀に3区分された。官国幣社の大祭は祈念祭、新嘗祭、例祭、臨時奉幣式、本殿遷座。公式の祭祀は原始祭、紀元節、大祓、遥拝式、仮殿遷座、神社に特別の由緒ある祭祀。府県社以下の神社はこれに準じる、とされた。

内務省社寺局は明治33年(1900)4月、神社局と宗教局に分かれ、神社行政は神社局、神道教派と仏教宗派は宗教局が担当するようになった。そこには神社神道は宗教ではない、との政府の立場が反映されており、「神社は国家施設」とされた。

明治39年(1906)、「官国幣社経費に関する法律」が定められ、それまでの保存金制度を解消して国庫から供進(補助)されるようになった。明治41年には「神社財産に関する件」という法律が公布され、全国の官幣社、国幣社の経費は国庫負担とし、府県社や郷社に対しても祭礼などにともなう費用は府県や市町村から支給されることになった。

これより前の39年8月、「神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する件」という勅令が出され、全国規模で神社の統廃合が始まった。有力な地方自治体の創出と並行して経費削減のため一町村一神社を目途に神社の統廃合を進めたのである。

大正2年(1913)には宗教局のみ文部省に移され、神社行政と宗教行政が完全に分離された。この年、官国幣社以下神社神職奉務規則と、事務手続きの集大成法と言える官国幣社以下神社の祭神、神社名、社格明細帳、境内、創立、移転、廃合、参拝、拝観、寄付金、講社、神札、などに関する件が公布された。

また翌3年には官国幣社以下神社祭祀令・同祭式が公布された。これにより神社祭祀は大祭、中祭、小祭に分けられた。具体的な区分は大祭が祈念祭、新嘗祭、例祭、遷座祭、臨時奉幣祭、靖国神社合祀祭。中祭が歳旦祭、原始祭、紀元節祭、天長節祭、神社に特別の由緒ある祭祀。小祭はそれ以外のものだが、その他諸と呼ばれるものもある。地鎮祭、起工式、七五三、祈雨祭、慰霊祭などがそれである。この祭祀区分は戦後、神社本庁の祭祀規程に継承され、各神社の参考にされている。

その後、昭和15年(1940)、皇紀2600年を機に内務省神社局は廃止されて、内務省の外局として神祇院が設置され、神社にかかわる独立した中央官庁が復活した。

[Source: 御遷座六百年史]

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