Tuesday, March 7, 2017

西寒多神社: 一ノ鳥居/ニノ鳥居/御神幸所

一ノ鳥居跡

大分市富岡459番地の5の地先(旧国道10号)冨岡街道に明治9年(1876)に建立された。

しかし、残存していないため、存在していたこと事態知らない人が増えている。

『大分の鳥居』(高原三郎著)によると、鳥居には毛利空桑書の「明徳及黎民 萬禾?惟聲」と書かれていた、とされるが、昭和30年1月に道路の拡幅舗装工事のため撤去された。そのため、大きさ形式などを確認できない。撤去された際、基石部分を引き取って保存している人がいると伝えられているが不明。
二ノ鳥居(下寒田)

一般には下寒田にある鳥居が一ノ鳥居と思われているが、それは一の鳥居が既に撤去されているためで、この鳥居は正確には二ノ鳥居である。

大正13年(1924)4月、瀧尾村の田崎延作と東稙田村の廣瀬柳太郎の寄進。同年1月、2人から「鳥居建替寄進願」が出されている。それによるとそれまであった木製の鳥居が腐朽して同12年夏に倒壊したため、鉄筋コンクリート製の鳥居に建替えて奉納したいと願い出ている。

工事は大正13年4月に完成し、5月13日、更に7月7日へと延期された。その理由は不明。当日は、東稙田村長首藤忠四郎や寒田区長操生堅太らが出席し、中祭に準じて祓式と奉告祭を行った。

設計書には、高さは「笠木上端迄二十七尺」「巾柱ノ真々 二十尺、地下六尺」「柱大サ直径 二尺」とある。建替え費用は、1,509円40銭。

実測は、高さ6.3メートル、幅5.4メートル。
八幡田御神幸所(頓宮)

現在は七瀬川の河川改修工事で河川敷となってなくなったが、大分市下宗方の八幡田地区に西寒多神社の御神幸所があった。神幸祭の折に神輿が行幸する場所だった。八幡田の地名そのものが西寒多神社や柞原神社との歴史的な関係を思わせるものである。一説には、かつては八幡殿と言っていた、との説もある。
八幡田は臼杵藩領で、青筵買い付けの会所が置かれていた。臼杵藩領に頓宮が営まれたのは、西寒多神社の神領があったためと推測されるが、裏付け資料はない。
明治8年(1875)12月、宮司田近陽一郎は大分県令森下景端に『頓宮地之儀ニ付願』を提出し、正式に西寒多神社の付属地として認めてくれるよう、図面を添えて上申している。

明治9年3月、この願いは認められ、改めて土地の丈量図面を県に提出している。それによると場所は八幡田河原で、広さは5反1畝16歩とある。

以後、4月15日の例祭にはこの八幡田河原の神幸所に行幸をすることになった。

しかし、神社所有地の明細書に記入漏れだったらしく、明治45年(1912)5月に改めて追加している。その面積は8畝とあり、明治8年の時よりかなり狭くなっている。

明治12年(1879)11月、八幡田神幸所に下宗方村の釘宮清衛の寄進により神殿と石灯篭、手水鉢が完成した。費用は279円37銭。しかし、15年8月21日の暴風雨で倒壊し、流失してしまった。その後まもなく仮殿が造宮されたようだが、明治26年1月にはそれを寒田川沿いの郷ノ城河原に移した。この時、釘宮清衛が寄進した石灯篭と手水鉢も移された。

明治12年から24年にかけて八幡田の御神幸は5日間ないし7日間催されていた。同24年4月26日の日記に「競馬賑ナリ凡馬二百頭許」とあり、大いに賑わっていたことがわかる。


郷ノ城御神幸所(お旅所

八幡田から郷ノ城河原に移した御神幸所の仮殿も明治28年(1895)7月24日に暴風雨のために転倒してしまった。

このため明治29年4月に再び新築した。同37年12月の神社明細書によると仮殿は桁行、梁行も三間の破風造りで、平屋の社務所(桁行三間、梁行一間五合)も建てた。一対の石灯篭と手水鉢は八幡田御神幸所から移した。

昭和12年(1937)3月、東稙田村長と寒田区長、田尻区長の3人が連名で、西寒多神社宮司に対して、村中央の田尻河原に神幸してくれるよう、変更願を提出している。その理由は、郷ノ城では場所が不便で参拝者が少なく、御神慮に申し訳ないため、としている。

田尻河原に行幸が行われたのは昭和12-13年の2年間に過ぎなかった。人々はその地を高見公園と呼んでいた。場所は田尻橋の南側の上流部の河原だった。その後、再び郷ノ城御神幸所に行幸するようになった。

しかし、昭和30年(1955)頃、同御神幸所の跡地を売却。寒田公民館をお旅所とした。

八幡田御神幸所から移された石灯篭と手水鉢などは、現在、寒田区公民館(お旅所)の敷地内に安置されている。
ドイツ人捕虜が参拝

第一次世界大戦で日本が戦ったドイツ人の捕虜141人が大正3年(1914)12月から7年8月まで大分市内の俘虜収容所(金池小画工内)に収容されていた。西寒多神社の記録を見ると、そのドイツ人捕虜が前後5回、西寒多神社を参拝している。最初は、大正4年10月13日で100人。2回目が、大正5年3月9日の80人で、参拝のあと稙田村木上の少林寺に向かった。平成19年にこの時の写真が見つかり、大分合同新聞に掲載された。

3度目は同5月5日で85人が参拝。12月19日の4度目には120人が参拝した。大正7年4月5日には120人の捕虜が楽隊に合わせてパレードしながら参拝し、境内各所に散らばって折詰弁当を食べ「学童ノ遠足ニ弁当ヲ開クニ髣髴タリ」という状況だった。

売店で洋酒を飲んだり果物を食べる姿は「恰モ活動写真ヲ見ルが如シ」だった。1人の捕虜が西寒多神社の絵葉書を見て喜び、友人に声をかけると大勢あつまってきて70組もの絵葉書が売れた、と記録されている。

[Source: 御遷座六百年史]
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一ノ鳥居は、肥後街道からの分岐点付近に建てられた。(肥後街道:  青ライン)

八幡田御神幸所も肥後街道の七瀬川の七ノ瀬地点である。

ドイツ人捕虜は、金池小学校から肥後街道を通り、一ノ鳥居をくぐって西寒多神社まで来たのではないか。その後、寒田村・田尻村を抜けて木上の少林寺へ。帰路は、肥後街道を歩いて戻ったと推測する。

昔からの旅人も肥後街道を外れ西寒多神社に参ってから木上付近で肥後街道に合流し、九重・阿蘇・熊本に向かったのかもしれない。

ただ、この辺りは細かく分藩されていたため、西寒多神社(延岡領)までパスポートなしで行けたのか否かは専門家に聞いてみないとわからない。
一ノ鳥居周辺と肥後街道沿いは、伊能忠敬よって測量されている。

第2次大分県下測量: 1810年12月18日~1811年1月13日
久住~(肥後街道を外れる)~竹田城下~堤(肥後街道)~今市~野津原~府内~別府~日出~山香~宇佐~中津~本耶馬溪~高瀬(福岡県)
野津原~府内間の記録を『伊能忠敬測量日記』より抜粋

【12.17】朝より晴天、六ツ後、野津原村出立、測量人は同前、同所より初め、枝恵良・胡麻鶴村字新開・枝廻洲、七瀬川巾二十一間、字三道、それより延岡領県(内藤亀之丞)木上村枝小柳・同口戸村枝田島・臼杵領稙田市村、それより延岡領粟野村・同領雄城村・臼杵領、下宗方村枝八幡田、七瀬川巾二十間、嶋原御宿預所光吉村まで側、二里〇八丁、測所打上げ、四十二間五尺六十〇間、それより仕越、光吉村と延岡領宮崎村まで測、七丁四十八間、合三里十七丁三十〇県五尺、九ツ前光吉村に引帰し着

止宿本陣嶋原御預所庄屋善左衛門、別宿組頭利平治

着後、嶋原御預所代官 井上清左衛門出る、府内惣年寄 渡辺久左衛門、泊宿 橋本屋八左衛門来る、熊本池部長十郎並びに手付四人足立津右衛門、此の所まで送り来たり、それにより坂部ノ方へ見舞に鶴崎へ行、この夜晴曇、測量

【12.18】朝より晴天、測者同前、六ツ後、光吉村出立、延岡領宮村より始め、延岡領当国当郡大庄屋清水作衛門、同所鴛野村庄屋安藤文吉、右領案内、西曲村津守村・片島村、それより府内領渡辺久左衛門案内、羽田村、下郡村・字六本松㊅印を残す、別手繋の為なり、由布川巾五十四間、府内城下(松平起之助居城)、字坊ヶ小路・東新町・塩九升(ショクセウ)町・米屋町・万屋町・蛭子町・稲荷町・下市町・中ノ町・檜物町・東上市町・京町・革屋町・桜町、止宿まで測る、午春(今年の春)残印に繋ぐ、一里三十二丁十九間一尺、岡宮村より始め、府内六本木一里〇六丁一十一間三尺、六本木印より府内止宿二十六丁〇間七四尺、四ツ後、府内城下桜町着止宿、同前橋本屋八右衛門

領界へ当所勘定方神屋幾治郎、代官小野代右衛門、書役芦苅満右衛門、町若年寄渡辺久左衛門出る、着後、町奉行増田茂太夫、郡奉行木戸庄右衛門、見舞に出る、この日、日出代官今村広作来る、この夜晴天測量、脇亭主酢屋平右衛門も付居る
光吉村での宿となった「庄屋善左衛門」邸の場所が気になっていたのだが、「伊能忠敬研究会」さんが公開したマップで判明した。

肥後街道と周辺寺社の位置関係で大体想像していた辺りだった。(七ノ瀬付近)
文久3年2月18日に勝海舟・坂本龍馬一行が肥後街道を通り七ノ瀬を渡り長崎に向かい、同4月9日七ノ瀬を反対方向に渡り鶴崎へ。

河川敷の竹藪で発見された歴史を感じさせる石碑があり、「ここは臼杵藩の端っこですよ」と記してある。
余談ではあるが、八幡田御神幸所跡地(周辺)と肥後街道も私の『孤高のゴミ拾い』ルートに入っており、毎日ゴミを拾っている。この地と先人へのリスペクトのつもりである。

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