Wednesday, January 24, 2018

司馬遼太郎の世界~高島礼子の九州探訪 大分から長崎へ龍馬がたどった道

私は勝海舟・龍馬一行と同じルート、7泊8日で大分市佐賀関~熊本~長崎まで歩いたことがあります。約250kmです。私の毎日のゴミ拾いルートの半分くらいは「肥後街道」沿線なのです。あの界隈の「サムライ街道を絆ぐ会」の唯一の会員として、先人達へのリスペクトの気持ちを込め毎日ゴミを拾っています。それが、ゴミ拾いが長続きしている要因の一つです。
元治元年(1864)2月14日、勝海舟・坂本龍馬一行は神戸より観光丸に乗船し、大分の佐賀関を目指しました。そこから鶴崎~久住~阿蘇~熊本~島原~長崎までを7泊8日で移動しました。そのことは『海舟日記』に記されおり、佐賀関での宿「徳応寺」の宿泊名簿(復路)にも記録されています。

軍艦奉行: 勝麟太郎(海舟)

高木三郎・高山喜一郎・高松太三郎・高松好市・佐藤輿一郎・黒木小太郎・坂本龍馬・竹田康次郎

往路メンバーを調べてみると、海舟の他は、坂本龍馬・千屋寅之助・望月亀弥太・近藤長次郎が同行したとありました。

ここまでは有名なお話です。
私は、『海舟日記』を読んでいません。

長崎まで歩く前に『海舟日記』は今どこにあり、そして誰が所蔵しているのかを調べました。

江戸東京博物館歴史研究室が、「勝海舟関係資料 海舟日記」という書籍を出版し完売、数年前はAmazonで10,000円~(中古)で販売されていました。現在は不明。

国立国会図書館には「勝海舟関係資料 海舟日記」が所蔵されていることを確認。

「東京都江戸東京博物館」に電話をかけてみました。

2冊ある原本の1冊が「東京都江戸東京博物館」にあり、原本を見ることはできないが、マイクロフィルムに記録されていると説明してもらいました。

「もう1冊はどこにあるのでしょうか?」と尋ねたところ、講談社さんが持っていると教えてくれました。

講談社さんに電話してみたところ、「講談社・野間記念館」にあるということがわかりました。

電話をかけてみました。

間違いなく存在するということでしたが、こちらも閲覧はできず、「ボロボロなのですか?」と尋ねると、「いえいえ、そこまでではないです」という返答でした。

ちょっとはボロボロなのかもしれません。

20年ほど前(?)に「東京都江戸東京博物館」で「勝海舟展」があり、その時に貸し出したそうで、海舟日記の写真が展示されているのではないかとおっしゃっていました。

講談社さんが出している『海舟全集』の中に『海舟日記』について書かれていることも教えてくれました。

けど、やっぱり原本が見たいです。機会があれば、「東京都江戸東京博物館」で『海舟日記』のマイクロフィルムを閲覧させていただこうと思っているのですが、まだ見れていません。


通説では龍馬が肥後街道を歩いたのは1往復と言われていますが、実は、それ以前に二度肥後街道を通過し、肥後経由で薩摩に向かった可能性があるのです。

坂本龍馬は、脱藩するちょっと前から歴史舞台に登場してくる人物なのですが、以後暗殺されるまでの5年間で、歴史年表から数ヵ月間姿を消すという空白の期間が2度ありました。資料や手紙は発見されていません。(もしかしたら、現在新しい発見があったかもしれませんが)

一度は、文久3年(1864)11月10日、勝海舟が軍艦奉行を罷免された後の4ヵ月間。長崎に行きグラバーから沢山のことを学び、「亀山社中」設立の準備をしたいう説が最有力となっています。(所説あり)

グラバーには同年2~4月に長崎に滞在した時に対面し、知った仲でありました。この時に佐賀関から肥後街道を通って長崎に向かったのです。次に歴史年表に登場するのは、慶応元年(1865)4月5日です。

もう一度は、少し遡って文久3年(1862)に脱藩した時。4月1日に下関に到着するも待ち人には会えず、一緒に脱藩した沢村惣之丞は京へ、龍馬は別れて薩摩へ向かったとされています。次に維新土佐勤王史「6月11日大坂着」と刻まれるまでの2ヵ月間の行動が定かではないのです。

ここからが本題です。

龍馬は、関門海峡を渡り、国東半島を経由し熊本に入り、薩摩街道を南下し薩摩に向かったとされているのですが、出水市の野間関で二重鎖国の薩摩に入国拒否をされ、来た道を戻ったとされています。

国東半島を経由して熊本に向かうということは、サビエルが通った道を龍馬も歩き、別府経由で狭間方面へ、今市あたりで肥後街道に合流したのではないかなと。

大分では「大分市佐賀関~長崎」間の一往復のみという認識になっていると思うのですが、龍馬は、その2年前に既に1人で豊後を通過し、肥後街道を通っていたかもしれないという、妄想です。

実際に別府から狭間を抜けて今市まで歩いてみたのですが、しっくりきました。「街角のマーケター」は、気になることがあれば、実際にやってみたくなる質なのです。
赤ルートが佐賀関~長崎ルート/青ルートが仮説のルート。

大分の龍馬フリーク(私は違います)、ザビエルの道で地域振興されている方達には大きな関心ごとだと思うのですが、こんな妄想しているのは私だけかもしれません。あるいは、専門家さんによって「ナンセンス」とダメ出しされたのか。

タイムマシンがあれば、毎日ゴミを拾う七瀬川の七瀬で彼らが通過するのを待ち伏せし「おはん、大分きたん二度目やろ?」と問うてみたいです。
そんなことを含めて土曜日の放送を楽しみにしてます。皆様も是非に。

OABさん、ありがとうございます。

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