Monday, March 27, 2017

西寒多神社: 皇室・皇族との関係

大分県内で唯一、国幣中社に劣化された西寒多神社は皇室との関係が深く、皇室行事と関連した祭祀も執り行ってきた。また、皇族方のご参拝も多かった。


下馬下乗の立て札

明治9年(1876)11月、政府の宍戸璣教部大輔宛に皇族方の参拝に備えて下馬下乗の場所選定の伺い書を提出し、あわせて県庁にも同書の本省への進達を求めている。これは、明治7年に政府から下馬下乗の場所を設けるように、という指示を受けてのことである。

同書には略図が添えられていたようだが、残念ながら保存されていない。しかし、その文面から境内中央の石段下一ヵ所であることが推測される。実際、明治37年(1904)発行の『大分県社寺名勝図録』を見ると、拝殿前の階段下に「皇族下馬」「皇族下乗」の二本の立札が描かれている。


有栖川宮親王殿下来県

明治21年(1888)1月14日、有栖川熾仁親王殿下が熊本鎮台兵を検閲した帰途、大分県に立ち寄っている。有栖川殿下は明治15年9月に国典研究、神職養成のために設立された皇典講究所の総裁。

有栖川宮殿下は竹田から久住、野津原を経て大分に到着しているが、西寒多神社にも県から事前に連絡があり、打ち合わせのうえ14日に宮司が野津原で奉迎。さらに旅館に到着した有栖川宮殿下に名刺を差し出して拝謁した。有栖川宮殿下は翌15日、鶴崎で大野川に船を浮かべて鯉漁を御覧になったあと、随行の大佐を招魂社に代参させ、午後4時、菡萏港(西大分港)から船で別府に向かわれた。

なお、禰宜の矢野勘三郎は15日朝、県庁で有栖川宮殿下に拝謁した。矢野は文久2年、薩摩の島津久光(三郎)が兵を率いて上洛した際に随行して、褒められたことがあり、特別に拝謁を許されたのである。


明治天皇崩御

明治45年(1912)7月30日、明治天皇の病状が篤いことが伝わっていたが、午前0時43分崩御との告示が発せられたことが県庁から知らされた。また、皇太子殿下がただちに践祚し神器渡御式を行われ、即位して大正と改元したことも知らされた。

ただちに謹慎の姿勢を示し、神社としての対応を協議した。英照皇太后殿下崩御の際の達しを調べてみたが要領を得ず、とりあえず時報を廃したことが日記に記されている。当時、太鼓を叩いて時を知らせていたのであろう。

県庁から31日以後5日間歌舞音曲を停止し、国旗を掲げる時は上部に黒布を付け、竿頭の玉を黒布で包むように、との通達が届いた。宮司はこの日、村役場に出向いて不例中の国旗の立て方や弔意を表すための服装などを指導した。

8月1日、止めていた時報を再開。6日には県庁から官祭以外の祭典はいつもの通りに行っても差し支えないとの通達が県庁から届いた。

9月12日、地元村長らが来て明治天皇大喪遥拝式の準備を行い、13日の当日はまず神職が祓式をしたあと直ちに献饌。続いて奉悼詞を奏した後、村長が玉串奉奠、拝詞奉読。以後、参列者が順次玉串を奉奠して式を終えた。


大正天皇崩御位

大正4年(1915)11月10日、大正天皇が京都御所紫宸殿で御即位すると、西寒多神社でも御即位奉告祭を執り行った。


長慶天皇皇代御登列奉告祭

大正15年(1926)10月22日、宮中三殿で長慶天皇皇代御登列親告の儀が行われたため、西寒多神社でもこの日、境内の遥拝所で遥拝式を行った。そして同11月1日に東稙田村長や東稙田小学校校長(代理)、在郷軍人分会長、青年団長、寒田区長ら160人と村内の小学校の児童らが参列して御登列奉告祭を挙行。大分中学校の青井常太郎が2時間に亘って講演した。

長慶天皇は後村上天皇の息子で、名は寛成。応安元年・正平23年(1368)ごろ践祚した。足利方と徹底抗戦することを主張したが受け容れられず、永徳3年・弘和3年(1383)、和平派の推す弟の後亀山天皇に譲位した。江戸時代からその即位をめぐって意見が分かれていたが、大正15年に後村上天皇に続いて在位していたことが確認され皇統に列せられた。10月21日の官報で発表され、官国幣社以下神社で祭祀を行うよう達せられた。御登列奉告祭はこれに受けての儀式。


大正天皇の病気平癒祈願と大喪遥拝式

大正天皇は若い頃から御病弱であったが、大正15年12月に重体となられ、同17日、県庁から県下三神社に一斉に平癒の祈願を行うよう通知があった。このため西寒多神社では18日、地元村長や小学校長、在郷軍人会分会長、青年団長らが参列して平癒祈願を執り行った。

同24日、寒田区民全員が参拝し、区長の要望を受けて平癒祈願祭を挙行。午後から県の内務、警察、労務三部長も参拝した。大正天皇御危篤の電報が次々に到着し、その要旨を社頭に掲示して参拝者や氏子に知らせた。

同25日午前1時25分、大正天皇が崩御。その知らせは国民に知らされ、西寒多神社は宮司の名前で宮内庁に哀悼電報を打った。同日、改元し昭和となった。

昭和2年(1927)2月7日、大正天皇の御大喪の儀に合わせて境内の外の芝地で宮司以下全職員が参列して遥拝式を挙行した。東方正面に笹の付いた斎竹を立て、周囲を木綿垂付きの注連縄で囲んだ中央に薦を敷き、玉串台を置いて左右に炬松焼場の穴を掘るなどの式場づくりを行い、新宿御苑での喪場殿の儀に合わせて午後11時に宮司以下全員が参列。宮司が遥拝詞を奏し、玉串を奉奠。禰宜らも順次列拝して遥拝式を終えた。


昭和天皇の御結婚と皇太子(現天皇)の誕生

昭和天皇が皇太子だった大正14年(1924)1月26日に御結婚奉告祭を執り行った。昭和8年(1933)12月23日に皇太子殿下(現天皇)が誕生すると、翌24日、村長や小学校長、区長らが参拝して御降誕奉告祭を執り行った。皇太子殿下の御命名式が行われた。29日には西寒多神社にも多くの参拝者があった。


建武中興六百年祈年祭

昭和9年(1934)3月13日、東稙田小学校5年生以上の児童が参列し、建武中興六百年祭を執り行った。この日に合わせて在郷軍人や寒田区民が神苑や参道に桜や檜の苗木を植樹した。


皇紀二千六百年奉祝祭

昭和15年(1940)10月24日付けで県学務部長から宮司に対して紀元二千六百年式典当日の祭典に関する依命通牒が届いている。それには「十一月十日の紀元二千六百年式典は国を挙げて慶祝し奉るべき皇国の盛典なるを以って当日官国幣社以下神社に於いて寿詞を奏し寶祚の無窮と国運の隆昌とを祈請せしむべく今回内務大臣より訓令・・・・」と、氏子や崇敬者参列の下、盛大に祭典を執行するよう求めている。祭式や祝詞も決められており、浦安の舞を奉奏する場合は祝詞奏上の次とし、市町村が当日行う諸行事については別途国民精神総動員本部から市町村に出された通牒に基いて間違いのないように行うよう命じている。

11月10日午前10時から東稙田村村長や駐在巡査、小学校長、村会議員らが参列して奉祝祭(中祭)を執行。祭典後、竹中村の神楽が舞われる中、祝宴を催し、万歳を唱えた。


菊の御紋章

西寒多神社の建物には他の神社と異なり、菊の御紋章が数多く飾られている。この菊の御紋章の使用は当初、官幣社のみに許されていたが、明治7年(1874)に国幣社にも許可され、区別はなくなった。

昭和12年(1937)5月、内務省神社局長から「社殿工作物の菊御紋章使用に関する照会」が県を通じてあり、6月に回答している。それによると本殿234個、透塀109個、中門8個、拝殿57個、神饌所39個、神庫159個(瓦)、祭器庫(瓦)18個、外門32個、内構玉垣(瓦)4個の計656個となっている。


天皇陛下の姉、池田厚子神宮祭主が参拝

西寒多神社には戦後も皇室にゆかりのある方々が参拝しているが、最近では平成20年(2008)10月29日に、伊勢神宮の池田厚子祭主が参拝し、拝殿で玉串を奉奠した。

[Source: 御遷座六百年史]

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