後藤碩田は明治4年10月4日、西寒多神社主典に命じられた。碩田は号で、本名は真守。通称今四郎。碩田自筆の履歴書によると日田県別府表つまり別府支庁で主典を拝命したとなっている。この年の7月に廃藩置県が行われ、大分県などが成立したのだが、実質的に機能し始めたのは初代県知事(参事)森下景端が着任した5年1月以降で、それまでは慶応4年閏4月に発足した日田県がまだ機能していた。
主典は宮司や禰宜に次ぐ職階。後藤は西寒多神社主典を拝命と同時に姓を枚岡に変えた。後藤家は保元の乱の頃までは河内国枚岡神社の神職をしていて枚岡姓だったことから元に戻したのである。このため西寒多神社の保存文書には枚岡真守と記録されている。
後藤は6年に教導職十一級に補され、次いで同年7月に権禰宜に任じられ、同年中に中講義になった。更に13年には大講義に任じられた。
後藤は現在の大分市の乙津の豪商の家に生まれ、日出の帆足万里に漢学を学び、竹田の田能村竹田に師事して詩や画の研鑽に励んだ。更に中津の渡辺重名(重石丸)に国学を学んだ。若い頃から勤王家として活躍し、熊本の宮部鼎蔵や岡藩の小河一敏、更には長州の高杉晋作らと交わった。幕府による長州征討の際、長州藩主の命令を受けて九州諸藩の動静を探って報告し、褒賞を贈られた。後藤が西寒多神社主典に命じられた背景には明治新政府の中心勢力となった長州寄りだったことも影響しているものと見られる。
西寒多神社が国幣中社に列せられたのは、この後藤碩田の功績が大きかったと思われる。
なお、後藤は歴史を初めとする膨大な資料の収集に取り組み、500冊からなる『碩田叢史』をまとめた。その中には『寒多反古(一)(ニ)』があり、神道行政に関する資料や西寒多神社関係資料が含まれている。
碩学、後藤碩田の収集書籍
『碩田叢史』の『寒多反古』(一)(ニ)
『碩田叢史』は西寒多神社の主典や禰宜、教導職を務めたことがあり、碩学で知られる後藤碩田が出筆、あるいは古書を書き写した写本、収集した書籍の総称である。現在、その原本455冊が大分県立図書館に所蔵されている。また東京大学資料編纂所にもその一部の写本54冊が保存されている。
この『碩田叢史』は郷土史、日本史を研究する上で貴重な資料となっている。この中の『寒多反古(一)』『寒多反古(ニ)』は、後藤が西寒多神社の神職をしていた頃に出筆、あるいは保存・収集したと思われる神社、あるいは祭式、神道行政関係文書などをまとめている。
『寒多反古(一)』には第三大区(現在の大分市、由布市を中心とする地域)内の郷社と村社の名称と神官の名前、戸数などを列記したものや里楽規則、後に西寒多神社の権宮司になった城原八幡神社神官日野資計が著わした「祭儀根源」(上之巻)(下之巻)などからなっている。
『寒多反古(ニ)』は宣教師心得(本版本)や説教心得、西寒多神社教導小教院之一件、中教院御設置之場所見込入札、日要新聞、教会大意、天祖皇祖礼拝儀、神官奉務規則、中教院規則などからなっている。
これらの中には「明治六年西寒多神宮御達書」や「明治八、九年西寒多神社諸達」に含まれているものもあるが、当時の宣教使の心得や説教をする上での注意事項、礼拝の儀式などを知ることができる。
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