Friday, September 22, 2017

【2017.9.22】ブログ休止のお知らせ

突然ではありますが、『孤高歩記』の投稿を休止することにしました。

ポイ捨てゴミについての私見を公開で記すことについては、「もういいかな(enough)」と考えています。ポイ捨てゴミについては、ネガティブな事案なので内容もそれっぽくなってしまい、それについては疲労感と云いますか、書きながら自分の無力さと器の小ささを痛感し自己嫌悪になることが多くなってきました。

私のような若輩がゴミ拾いや登拝をしていると、何かと誤解されることも多く、「そうではないのですよ」ということを知って頂くという意図もありました。その誤解は、今年のはじめに大分合同新聞さんに取材をして頂き、ある程度理解していただくようになりました。年輩の方がこのブログを読むことは稀で、やはり大分においては、大分合同新聞さんの影響は大きく、昨日も「貴方、新聞の方よね(載っていた方よね)」と声を掛けて頂きました。「貴方の記事を切り抜いて貼ってるのよ」と云っ下さる方も何人か。自分の家族でさえ保管していないのに。

大分合同新聞社と書いて頂いた記者さんには感謝です。

今までの投稿を非公開にしようかと思ったのですが、いくつかセレクトして残しておきます。写真と積算距離数だけをSNSで公開することにしようか・・・どうしようか。

孤高シリーズで書き溜めたもの。
ブログ関係なく『孤高のゴミ拾い』『孤高の登拝』は変わらず続けていきますので、今後共宜しくお願い致します。
甲斐猛則
http://oitseaden.tumblr.com/post/165602642052/とりあえず今日からこちらで個人的なchit-chatを自分は誤字脱字

Monday, September 18, 2017

台風18号の爪痕【2017.9.18】孤高のゴミ拾い: 23,490 km/14,596 mi

想像以上に増水しており、ゴミ拾い道中の低い土地に住む方達の被害も大きかったようです。大雨が降った場合、河川敷に濁流が上がるかどうかと心配するのですが、今回の台風では、そのラインをはるかに超え土手まで達していました。今朝の段階では、「濁流が上がるかどうか」の水位でした。
アフター(↑)/ビフォー(↓)
河川敷のグランドやゲートボール・グランドゴルフのフィールドも濁流に浸かってしまいました。
明磧橋から下流部(宗方・光吉側)は酷く、膨大な量のゴミが堆積しています。(恐らく上流部も酷いと思います)
毎年一度は大雨で河川敷に少しゴミが上がるのですが、この5年で最悪の状況になってしまいました
今まで23,000km拾ってきた数百倍のゴミが撒き散らかされてしまい、『孤高のゴミ拾い』が、一瞬で破壊されてしまった昨日でした。
夏の大雨で七瀬川河川敷に溜まったゴミを少しずつ片しましたが、今回はその周辺の木ごと下流に流されてしまいました。(部分)
2017.7.8撮影↓(部分)
2017.7.8撮影↓
2017.7.8撮影↓(部分)
新たなゴミも沢山あります。
七瀬川自然公園沿いの七瀬川/アフター(↑)/ビフォー(↓)
七瀬川の土手を濁流が越えました。(↓)対岸は人家があるので高くなっています。
もう少し下流部は低くなっており畑は全壊でした。
ピンぼけでわかりにくいのですが、流木が河川敷の道路を堰止めし腰下くらいのダムとなっていました。長さは十メートルくらいでしょうか。
以前の大水で溜まっていた流木やゴミが、キレイに下流に流されていました。
恐らく海まで流れていったのだと。大分の海人や魚達にはご苦労をお掛けしてしまいます。
府内大橋周辺もゴミだらけでした(↓)。
うっそうと茂っていた木々が所々根こそぎ流され景色がよくなっていました。
広瀬橋より(↓)
私のゴミ拾い道中では、府内大橋より下流は、上流よりマシな状態でした。
広瀬橋より上流/アフター(↑)/ビフォー(↓)
通常のゴミ拾いと合わせて明日から作戦を立ててコツコツ数ヶ月かけて回収していきたいと思っています。毎日拾っても数ヶ月かかるので、日々のポイ捨ては少し遠慮していただきたいと。

台風被害に遭われた方達のご苦労を考えると、大したことではありません。

被災された方にお見舞いを申し上げます。

今までゴミを拾い続けたことも無駄ではないのです。「一つ拾い一つ反省、一つ拾い一つ感謝」を地球半周以上も続けていると、こういう事があっても「Every day is a new day.(毎日が新しい一日)」と思えるもので、気持ちで負けることはないです。諦めたらそこで終わりです。

自然とお付き合いするということは、こういうことです。
自然への畏怖


皆様のご理解とご協力を宜しくお願い致します。


追記: 本宮山登拝道と西寒多神社奥宮が心配です。

Saturday, May 27, 2017

西寒多神社: 豊臣秀吉関連古文書

豊臣秀吉直書状(直書)写

天皇の意を受けて、関白秀吉が大友氏と島津氏との和睦を勧告したもの。

日付、宛名はないが、これとほとんど本文が同じ文書が天正13年(1585)10月2日付けで秀吉から島津氏宛に出されている。

本文書は同日付で秀吉から大友宛に出された「惣無事令」の内容で、これを受けて大友宗麟が大坂城へ登城することになった。
豊臣秀吉書状(朱印状)案

敵方へ通じる豊後国侍の動きをうけ、秀吉が大友義統と仙石・長曾我部両氏に対して筑後への出兵をすぐにやめ、府内に軍勢を入れて上方の軍勢が来るまで少しも動かず守りを固めるように命じたもの。

あわせて、右馬頭(うまのかみ)こと毛利輝元に対しても同様に指示したことや、さらに先発隊として備前衆・淡路・阿波の国侍を派遣したことを伝えている。
豊臣秀吉書状写

3月1日の自らの出陣を伝え、今しばらくはむやみに動くことなく、城の守りを堅固にするよう指示した秀吉の書状。あわせて秘蔵の平釜の贈呈に対して感謝の意を伝えるとともに、その返却を伝えている。

日付、宛名はないが、秀吉の九州出陣及び将軍義輝から宗麟へ与えられた「平釜」の記事があることから、天正15年(1587)2月に宗麟宛に出された内容とみられる。

Tuesday, May 23, 2017

本末転倒の町【2017.5.24】孤高のゴミ拾い: 22,119 km/13,744 mi

ツバメちゃん達が巣立ってしまいました。空っぽの巣を見るのは寂しいです。もしかしたら第2陣が子育てにやって来るかもしれません。
飲み食いしたゴミ、男性の衣類や下着、女性の下着やストッキングが散乱していました。使用済みの避妊具も散乱していました。ここだけの、今日だけの話ではありません。赤ちゃんのオムツもよく捨てられます。
今まで「大分市のスラム化」について何度も書いてきました。スラム街と言えば、外国のオドロオドロシイ街をイメージすると思いますが、大分市のスラム化は表には見えない所で着々と進み、そのスピードは加速しています。

通学路で使用済みの避妊具や女性の下着が捨てられているなど、外国のスラム街でもあまり見ない光景です。

更に問題なのは、大分市民がそのことに気付いていないということ、見て見ぬふりをしてはいけない人達が知らんふりをしているということです。認めたくない人達も多くいるのでしょう。

「一時期の話」「一部分の話」と云う人達がいます。だから私は盆正月関係なく毎日、1日15 km/10ほどのコミュニティを拾い歩いているのです。

ゴミを拾って22,000 kmの道中で多くの人生の大先輩方に道徳論を拝聴しました。昨日も書きましたが、大分新聞さんに取材していただいてから大分以外の方からも沢山のメッセージを頂戴し、その多くが道徳についてです。

私は道徳を語れるレベルの人間ではなく、皆様の「道徳がなってない」というご指摘は、そのまま私に対しての叱咤であると受け止めています。

道徳論の多くは、「今の若いもんは」「考え方が古い」というような年齢ギャップの埋まらない水掛け論になってしまいます。

人生の大先輩が云う所の「若いもん」というのは私の世代であり、私の世代の云う所の「若いもん」は20-30代のことでしょう。

人生の大先輩方が私の世代の「若いもん」に話をすると、「自分達には自分達の考え方ある」「なぜ、若いもんがやらなければならないんだ。年寄りができるなら年寄りがやればいい」と云うのだと。

そして、我々世代は「若いもん」に対して「ゆとりだからできない」と云い、彼らに「ゆとりでしょ? そう言うあなたは バブルでしょ?」と反撃されてしまうのだ。

「貴方はどうお考えですか?」と意見を求められます。

私は「できるもんがやればよい」と思っています。ゴミを拾える者が拾えばよいと。問題は、私の世代に「拾えるもんがいない」ということなんです。口ばっかり達者で足が動かないバブル末期世代です。その世代が高いポジションにつき、その子供達が主戦力となっている現状で、今以上に期待できることはないです。人生の先輩方にもイロイロなご意見の方がいらっしゃいますし、無関心・見て見ぬふりの人も少なくはないです。

この町のゴミを22,000 km拾いながらこの町を勉強し観察してきました。

ポイ捨てゴミの問題は、ゴミだけの問題でないことがわかりました。

「足元のゴミひとつ拾えぬほどの人間に、何ができましょうか。」(鍵山秀三郎)の意味がよくわかりました。

机の下のゴミを拾い歩くことで、
「人間の心は、そう簡単に磨けるものではありません。ましてや、心を取り出して磨くことなどということはできません。心を磨くには、とりあえず、目の前に見える物を磨ききれいにすることです。とくに、人のいやがるトイレをきれいにすると、心も美しくなる。人は、いつも見ているものに心も似てきます。」(鍵山秀三郎)
の意味もよくわかるようになりました。

そして、この町のシステムが本末転倒であることにも。

『本』は、本学のことであり人として必要な学問。
『末』は、末学のことであり生きていくために必要な学問。経済・IT・英語など。

本学が背骨であり、末学が筋肉なのです。本学あっての末学であり、それがひっくり返ってしまう状況が本末転倒なのです。
できる人間がやればよいのですが、やれる人間がいないのです。目立つことばかり、楽しいことばかり、楽なことばかりではなく、「誰かがやらなければならない」ことがあるということは皆様ご理解されていると思うのですが、性根の部分で動けないのです。

人間の性根というのはそう簡単に変わるものではないのですが、性善説で性根に期待し続けてきた結果がこの有様です。現状が当たり前の世代にとっては、「別にいいやん」ということなのかもしれません。

アメリカ風の言葉で云うと、「豚に歌を教えようとしてはいけない。それは無駄なことであるし、豚も迷惑だ。」です。

考え方を変えなければ。このままの状態では、スラム化のスピードは更に速くなり取り返しのつかないことになってしまいます。一見キレイに見える家でも床下をみればシロアリだらけなのです。ポイ捨てゴミは社会の縮図です。これからも机の上だけを片しますか?

この地は、子孫からの預かりものです。夢いっぱいの若い世代、元気いっぱいの子供ちゃん達、ヨタヨタ歩き始めたちっこい子供ちゃん達、生まれたての赤ちゃん、これから生まれる新しい命に今以上の負を背負わせるおつもりか?

誰が本気なんだ?

猛省と自戒。
What is moral is what you feel good after, and what is immoral is what you feel bad after.
( 道徳的なことは後から気持ち良く、不道徳なことは後で気分が悪い)
~アーネスト・ヘミングウェイ~

皆様にとって興味のないことであることは承知で、皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Friday, May 12, 2017

西寒多神社: 後藤碩田

後藤碩田は明治4年10月4日、西寒多神社主典に命じられた。碩田は号で、本名は真守。通称今四郎。碩田自筆の履歴書によると日田県別府表つまり別府支庁で主典を拝命したとなっている。この年の7月に廃藩置県が行われ、大分県などが成立したのだが、実質的に機能し始めたのは初代県知事(参事)森下景端が着任した5年1月以降で、それまでは慶応4年閏4月に発足した日田県がまだ機能していた。

主典は宮司や禰宜に次ぐ職階。後藤は西寒多神社主典を拝命と同時に姓を枚岡に変えた。後藤家は保元の乱の頃までは河内国枚岡神社の神職をしていて枚岡姓だったことから元に戻したのである。このため西寒多神社の保存文書には枚岡真守と記録されている。

後藤は6年に教導職十一級に補され、次いで同年7月に権禰宜に任じられ、同年中に中講義になった。更に13年には大講義に任じられた。

後藤は現在の大分市の乙津の豪商の家に生まれ、日出の帆足万里に漢学を学び、竹田の田能村竹田に師事して詩や画の研鑽に励んだ。更に中津の渡辺重名(重石丸)に国学を学んだ。若い頃から勤王家として活躍し、熊本の宮部鼎蔵や岡藩の小河一敏、更には長州の高杉晋作らと交わった。幕府による長州征討の際、長州藩主の命令を受けて九州諸藩の動静を探って報告し、褒賞を贈られた。後藤が西寒多神社主典に命じられた背景には明治新政府の中心勢力となった長州寄りだったことも影響しているものと見られる。

西寒多神社が国幣中社に列せられたのは、この後藤碩田の功績が大きかったと思われる。

なお、後藤は歴史を初めとする膨大な資料の収集に取り組み、500冊からなる『碩田叢史』をまとめた。その中には『寒多反古(一)(ニ)』があり、神道行政に関する資料や西寒多神社関係資料が含まれている。
碩学、後藤碩田の収集書籍

『碩田叢史』の『寒多反古』(一)(ニ)


『碩田叢史』は西寒多神社の主典や禰宜、教導職を務めたことがあり、碩学で知られる後藤碩田が出筆、あるいは古書を書き写した写本、収集した書籍の総称である。現在、その原本455冊が大分県立図書館に所蔵されている。また東京大学資料編纂所にもその一部の写本54冊が保存されている。

この『碩田叢史』は郷土史、日本史を研究する上で貴重な資料となっている。この中の『寒多反古(一)』『寒多反古(ニ)』は、後藤が西寒多神社の神職をしていた頃に出筆、あるいは保存・収集したと思われる神社、あるいは祭式、神道行政関係文書などをまとめている。

『寒多反古(一)』には第三大区(現在の大分市、由布市を中心とする地域)内の郷社と村社の名称と神官の名前、戸数などを列記したものや里楽規則、後に西寒多神社の権宮司になった城原八幡神社神官日野資計が著わした「祭儀根源」(上之巻)(下之巻)などからなっている。

『寒多反古(ニ)』は宣教師心得(本版本)や説教心得、西寒多神社教導小教院之一件、中教院御設置之場所見込入札、日要新聞、教会大意、天祖皇祖礼拝儀、神官奉務規則、中教院規則などからなっている。

これらの中には「明治六年西寒多神宮御達書」や「明治八、九年西寒多神社諸達」に含まれているものもあるが、当時の宣教使の心得や説教をする上での注意事項、礼拝の儀式などを知ることができる。

Saturday, May 6, 2017

西寒多神社: 災害

西寒多神社は、長い歴史に比較して大きな自然災害に見舞われることは少なかった。山の斜面という地形が幸いしたようだ。

明治15年(1882)8月21日、八幡田神幸所が強風のため倒壊、さらに七瀬川の洪水で消失した。同17年9月4日、本殿修築のため御遷座していた仮殿の屋根が暴風のため破損したため、夜中に神饌所に御遷座した。

同28年(1895)7月24日、八幡田神幸所の仮殿が26年に流失したため郷ノ城に設けていた仮殿が、大雨のため倒壊した。

同35年9月28日、台風で神殿背後の崖が崩れたり樹木が倒れるなどの被害が出た。

同40年2月10日早朝から降り出した雨はのちに雪に変わり、激しさを増した。境内の樹木が倒れるなどの被害で出た。11日も降雪がやまず、朝から予定していた紀元節の式典と遥拝式は雪掻きなどのため遅れた。

同41年8月10日、大雨が降って洪水。神庫と神楽殿の屋根の一部が壊れた。

同42年8月21日、境内の松の巨木が倒れ玉垣など12ヵ所に被害を受けた。

大正5年(1916)3月6日、地震があり建物が大きく揺れたが被害は不明。同8年7月23日、背後の山林に落雷があった。

昭和6年(1931)2月9、10日の両日、大雪が降り、10日朝には6寸(約18センチ)も積もった。9日夕方から境内の樹木が音を立てて折れたり曲がったが、被害はなかったようだ。同11月2日に地震が発生したが被害は生じなかった。

同16年10月1日、朝から大雨となり、禊川(現寒田川)が増水、車寄せ近くの玉垣や石垣が破損し大きな被害が出た。また、藤棚の一部が破損、境内の桜の木が一本倒れた。

同18年7月26日、御神庫の裏の崖が崩落したが幸い無事だった。同9月20日には暴風雨で境内の星差川(現西寒多川)に架かる裏参道の石橋ともう一つの橋が流失。藤棚の下の玉垣の大部分も流れた。また、表参道や萬年橋記念碑背後の石垣が寒田川の決壊で大きな被害を受けた。

同21年(1946)1月27日夕方、老松が大きな音を立てて倒れ、危うく鳥居や手水舎などが壊れるところだったが、わずかに免れて被害を受けずに済んだ

Friday, April 28, 2017

西寒多神社: 年間祭祀

【1月1日】歳旦祭
【2月1-3日】厄除け星祭
【3月15日】祈念大祭
【3月20日】本宮社春の大祭
【4月15日】例大祭
【4月29-5月3日】ふじまつり(講社祭・藤花祭)
【5月3日】大祭(引き続き育木祭)
【5月4日】戦没者慰霊祭
【5月5日】水神祭
【6月30日】大祓
【7月最後の日曜日】夏越祭
【9月23日】作祭
【10月20日】本宮社秋の大祭
【11月23日】新嘗大祭
【12月31日】大祓/除夜祭/古守札焼納祭
【毎月1日】月次祭
*********************************************
昭和7年(1932)発行『国幣中社西寒多神社略記』に記載されている祭祀(特殊神事除く)

【1月1日】歳旦祭(中祭)
【1月3日】元始祭(中祭)
【2月11日】紀元節祭(中祭)
【2月20日】新年祭(大祭)
【3月春分の日】春季皇霊祭遥拝式/繰生社春祭
【3月20日】本宮社祭
【4月自1日-至3日】神幸祭
【4月3日】神武天皇祭遥拝式
【4月6日】奨学祭(小祭)
【4月15日】例祭(大祭)
【4月29日】天長節(中祭)
【5月上旬】講社大祭(藤花祭)
【5月14日】列格記念祭(小祭)
【5月17日】厳島社例祭
【6月30日】大祓式/道饗祭(小祭)
【舊6月晦日】御祓祭(小祭)
【8月25日】天神社例祭
【8月秋分の日】秋季皇霊祭遥拝式/繰生社祭
【10月9日】合併者例祭
【10月17日】神嘗祭遥拝式/伊勢社秋祭
【10月20日】本宮社秋祭
【11月3日】明治節祭(中祭)
【11月22日】鎮魂債(中祭)
【11月25日】新嘗祭(大祭)
【12月25日】大正天皇祭遥拝式/煤祓式
【12月31日】大祓式/道饗祭(小祭)
【舊11月中卯月】卯月祭
【毎月1日】月旦祭(小祭)
【毎月15日】月次祭(小祭)/講社月次祭(小祭)/献詠祭(小祭)

Wednesday, April 26, 2017

西寒多神社: 歴代宮司

物集高世
就任年月日: 明治6年3月14日
退・転任年月日: 明治7年4月7日

田近陽一郎
就任年月日: 明治7年4月9日
退・転任年月日: 明治9年2月8日

湯谷基守
就任年月日: 明治9年3月17日
退・転任年月日: 明治10年12月18日

江藤正澄
就任年月日: 明治10年12月28日
退・転任年月日: 明治11年3月28日

宗六翁
就任年月日: 明治11年3月4日
退・転任年月日: 明治11年12月1日

村井泡
就任年月日: 明治11年12月19日
退・転任年月日: 明治15年6月3日

毛利登
就任年月日: 明治15年9月19日
退・転任年月日: 明治39年8月13日

金子長吾
就任年月日: 明治39年8月13日
退・転任年月日: 明治42年11月19日

遠山正雄
就任年月日: 明治42年12月1日
退・転任年月日: 大正3年4月18日

石上清治
就任年月日: 大正3年4月18日
退・転任年月日: 大正9年10月8日

後藤周治郎
就任年月日: 大正9年11月19日
退・転任年月日: 大正12年9月27日

久松信正
就任年月日: 大正12年9月28日
退・転任年月日: 昭和2年8月13日

長曾我部延男
就任年月日: 昭和2年8月13日
退・転任年月日: 昭和4年3月

松本浩通
就任年月日: 昭和4年3月5日
退・転任年月日: 昭和7年8月23日

上井廣𠀋
就任年月日: 昭和7年8月23日
退・転任年月日: 昭和20年12月8日

河野八百吉
就任年月日: 昭和21年6月24日
退・転任年月日: 昭和29年12月25日

小野新
就任年月日: 昭和29年12月25日
退・転任年月日: 昭和43年2月

村井昌
就任年月日: 昭和43年5月15日
退・転任年月日: 平成5年8月31日

玉井篤
就任年月日: 平成5年9月1日
退・転任年月日: 平成13年3月31日

縣好久
就任年月日: 平成13年4月1日

(写真: 昭和10年代)

西寒多神社: 氏子会

昭和21年(1946)2月に神社制度が廃止されたのに伴い、西寒多神社付属団体の豊後一宮講社を廃止せざるを得なくなった。それにともなって新たに氏子会を作ることになり、同年3月に氏子会規則を定めた。全文26条からなる規則の第2条は「本会は西寒多神社の隆昌を期し西寒多大神の御神徳を発揚顕現すると共に氏子恒例の祭祀神事を行うを以って目的とす」とその目的を定め、第3条で恒例の祭祀神事として例祭(4月15日)、祈念祭(2月20日)、新嘗祭(11月25日)、初卯祭を挙げている。


豊後一宮西寒多神社氏子會規則

第一條 本會ハ西寒多神社氏子ヲ以テ組織シ西寒多神社氏子會と称シ其ノ事務所ヲ西寒多神社々務所ニ置ク

第二條 本會ハ西寒多神社ノ隆昌を期シ西寒多大神ノ御神徳ヲ發揚顕現スルト共ニ氏子恒例ノ祭祀神事ヲ行フヲ以テ目的トス

第三條 本會ノ行フ西寒多神社氏子ノ恒例ノ祭祀神事ハ次ノ如シ

例祭四月十五日 祈念祭二月二十日
新嘗祭十一月二十五日 初卯祭 


第二章

第四條 本會々員ハ従前ノ西寒多神社氏子區域内ナル大分郡稙田村

(以下中略)

第六章 附則

第二十六條 本講社ハ昭和二十一年二月二日神社制度ノ廢止ニヨリ富然、国幣中社西寒多神社附属講社タル豊後国一宮講社規約モ改正ヲ要スルヲ以テ開發シコ丶ニ本規則ヲ制定シ神社法人登録済ノ日ヲ以テスルモノトス



豊後国一宮講社

大正13年(1924)3月13日、「崇敬者を結集して御神威を発揚する」ことを目的に豊後国一宮講社が設立された。主な事業は年一回講社大祭を厳かに実施し、祭典料を積み立てたり、各種品評会や講和会の開催を挙げている。

いずれにしても明治18年頃に結成されたと思われる一宮講社の改組と思われる。昭和16年の神祇院報告では、議員数は4,982人となっている。

(写真: 大正14年2月)

Monday, March 27, 2017

西寒多神社: 皇室・皇族との関係

大分県内で唯一、国幣中社に劣化された西寒多神社は皇室との関係が深く、皇室行事と関連した祭祀も執り行ってきた。また、皇族方のご参拝も多かった。


下馬下乗の立て札

明治9年(1876)11月、政府の宍戸璣教部大輔宛に皇族方の参拝に備えて下馬下乗の場所選定の伺い書を提出し、あわせて県庁にも同書の本省への進達を求めている。これは、明治7年に政府から下馬下乗の場所を設けるように、という指示を受けてのことである。

同書には略図が添えられていたようだが、残念ながら保存されていない。しかし、その文面から境内中央の石段下一ヵ所であることが推測される。実際、明治37年(1904)発行の『大分県社寺名勝図録』を見ると、拝殿前の階段下に「皇族下馬」「皇族下乗」の二本の立札が描かれている。


有栖川宮親王殿下来県

明治21年(1888)1月14日、有栖川熾仁親王殿下が熊本鎮台兵を検閲した帰途、大分県に立ち寄っている。有栖川殿下は明治15年9月に国典研究、神職養成のために設立された皇典講究所の総裁。

有栖川宮殿下は竹田から久住、野津原を経て大分に到着しているが、西寒多神社にも県から事前に連絡があり、打ち合わせのうえ14日に宮司が野津原で奉迎。さらに旅館に到着した有栖川宮殿下に名刺を差し出して拝謁した。有栖川宮殿下は翌15日、鶴崎で大野川に船を浮かべて鯉漁を御覧になったあと、随行の大佐を招魂社に代参させ、午後4時、菡萏港(西大分港)から船で別府に向かわれた。

なお、禰宜の矢野勘三郎は15日朝、県庁で有栖川宮殿下に拝謁した。矢野は文久2年、薩摩の島津久光(三郎)が兵を率いて上洛した際に随行して、褒められたことがあり、特別に拝謁を許されたのである。


明治天皇崩御

明治45年(1912)7月30日、明治天皇の病状が篤いことが伝わっていたが、午前0時43分崩御との告示が発せられたことが県庁から知らされた。また、皇太子殿下がただちに践祚し神器渡御式を行われ、即位して大正と改元したことも知らされた。

ただちに謹慎の姿勢を示し、神社としての対応を協議した。英照皇太后殿下崩御の際の達しを調べてみたが要領を得ず、とりあえず時報を廃したことが日記に記されている。当時、太鼓を叩いて時を知らせていたのであろう。

県庁から31日以後5日間歌舞音曲を停止し、国旗を掲げる時は上部に黒布を付け、竿頭の玉を黒布で包むように、との通達が届いた。宮司はこの日、村役場に出向いて不例中の国旗の立て方や弔意を表すための服装などを指導した。

8月1日、止めていた時報を再開。6日には県庁から官祭以外の祭典はいつもの通りに行っても差し支えないとの通達が県庁から届いた。

9月12日、地元村長らが来て明治天皇大喪遥拝式の準備を行い、13日の当日はまず神職が祓式をしたあと直ちに献饌。続いて奉悼詞を奏した後、村長が玉串奉奠、拝詞奉読。以後、参列者が順次玉串を奉奠して式を終えた。


大正天皇崩御位

大正4年(1915)11月10日、大正天皇が京都御所紫宸殿で御即位すると、西寒多神社でも御即位奉告祭を執り行った。


長慶天皇皇代御登列奉告祭

大正15年(1926)10月22日、宮中三殿で長慶天皇皇代御登列親告の儀が行われたため、西寒多神社でもこの日、境内の遥拝所で遥拝式を行った。そして同11月1日に東稙田村長や東稙田小学校校長(代理)、在郷軍人分会長、青年団長、寒田区長ら160人と村内の小学校の児童らが参列して御登列奉告祭を挙行。大分中学校の青井常太郎が2時間に亘って講演した。

長慶天皇は後村上天皇の息子で、名は寛成。応安元年・正平23年(1368)ごろ践祚した。足利方と徹底抗戦することを主張したが受け容れられず、永徳3年・弘和3年(1383)、和平派の推す弟の後亀山天皇に譲位した。江戸時代からその即位をめぐって意見が分かれていたが、大正15年に後村上天皇に続いて在位していたことが確認され皇統に列せられた。10月21日の官報で発表され、官国幣社以下神社で祭祀を行うよう達せられた。御登列奉告祭はこれに受けての儀式。


大正天皇の病気平癒祈願と大喪遥拝式

大正天皇は若い頃から御病弱であったが、大正15年12月に重体となられ、同17日、県庁から県下三神社に一斉に平癒の祈願を行うよう通知があった。このため西寒多神社では18日、地元村長や小学校長、在郷軍人会分会長、青年団長らが参列して平癒祈願を執り行った。

同24日、寒田区民全員が参拝し、区長の要望を受けて平癒祈願祭を挙行。午後から県の内務、警察、労務三部長も参拝した。大正天皇御危篤の電報が次々に到着し、その要旨を社頭に掲示して参拝者や氏子に知らせた。

同25日午前1時25分、大正天皇が崩御。その知らせは国民に知らされ、西寒多神社は宮司の名前で宮内庁に哀悼電報を打った。同日、改元し昭和となった。

昭和2年(1927)2月7日、大正天皇の御大喪の儀に合わせて境内の外の芝地で宮司以下全職員が参列して遥拝式を挙行した。東方正面に笹の付いた斎竹を立て、周囲を木綿垂付きの注連縄で囲んだ中央に薦を敷き、玉串台を置いて左右に炬松焼場の穴を掘るなどの式場づくりを行い、新宿御苑での喪場殿の儀に合わせて午後11時に宮司以下全員が参列。宮司が遥拝詞を奏し、玉串を奉奠。禰宜らも順次列拝して遥拝式を終えた。


昭和天皇の御結婚と皇太子(現天皇)の誕生

昭和天皇が皇太子だった大正14年(1924)1月26日に御結婚奉告祭を執り行った。昭和8年(1933)12月23日に皇太子殿下(現天皇)が誕生すると、翌24日、村長や小学校長、区長らが参拝して御降誕奉告祭を執り行った。皇太子殿下の御命名式が行われた。29日には西寒多神社にも多くの参拝者があった。


建武中興六百年祈年祭

昭和9年(1934)3月13日、東稙田小学校5年生以上の児童が参列し、建武中興六百年祭を執り行った。この日に合わせて在郷軍人や寒田区民が神苑や参道に桜や檜の苗木を植樹した。


皇紀二千六百年奉祝祭

昭和15年(1940)10月24日付けで県学務部長から宮司に対して紀元二千六百年式典当日の祭典に関する依命通牒が届いている。それには「十一月十日の紀元二千六百年式典は国を挙げて慶祝し奉るべき皇国の盛典なるを以って当日官国幣社以下神社に於いて寿詞を奏し寶祚の無窮と国運の隆昌とを祈請せしむべく今回内務大臣より訓令・・・・」と、氏子や崇敬者参列の下、盛大に祭典を執行するよう求めている。祭式や祝詞も決められており、浦安の舞を奉奏する場合は祝詞奏上の次とし、市町村が当日行う諸行事については別途国民精神総動員本部から市町村に出された通牒に基いて間違いのないように行うよう命じている。

11月10日午前10時から東稙田村村長や駐在巡査、小学校長、村会議員らが参列して奉祝祭(中祭)を執行。祭典後、竹中村の神楽が舞われる中、祝宴を催し、万歳を唱えた。


菊の御紋章

西寒多神社の建物には他の神社と異なり、菊の御紋章が数多く飾られている。この菊の御紋章の使用は当初、官幣社のみに許されていたが、明治7年(1874)に国幣社にも許可され、区別はなくなった。

昭和12年(1937)5月、内務省神社局長から「社殿工作物の菊御紋章使用に関する照会」が県を通じてあり、6月に回答している。それによると本殿234個、透塀109個、中門8個、拝殿57個、神饌所39個、神庫159個(瓦)、祭器庫(瓦)18個、外門32個、内構玉垣(瓦)4個の計656個となっている。


天皇陛下の姉、池田厚子神宮祭主が参拝

西寒多神社には戦後も皇室にゆかりのある方々が参拝しているが、最近では平成20年(2008)10月29日に、伊勢神宮の池田厚子祭主が参拝し、拝殿で玉串を奉奠した。

[Source: 御遷座六百年史]

Wednesday, March 15, 2017

大分の海を守ること【2017.3.15】孤高のゴミ拾い: 21,291 km/13,230 mi

ゴミ拾いに出発すると、久しぶりに日記名「悪役商会さん」にお会いしました。お年寄りと言うと失礼なのですが、実年齢よりは老けて見えているのだと思います。

確か奥様の介護をなさっているということでしたが、顔色や歩き方などからご本人の体調もかなり悪そうに見えました。しかし、咥えタバコはやめないのですね。
写真ではわかりにくのですが、寒田川と大分川の合流地点に昨年の夏の大雨で流てきたペットボトルや空缶が堆積しています。
大分川と七瀬川などの支流との合流点付近には大量のゴミが堆積しています。合流点以外でも沢山のゴミが引っかかっています。樋管(門)付近にも溜まっています。
しかしながら、そのほとんどは放置されており、次の大雨で下流・海に流すという水洗システムを選択している大分市です。
府内大橋周辺などの河川敷にゴミが上がった時は、数日かけて回収しています。

暖かくなると草が生え、夏になるとマムシなどにも注意しなければならないので、晩秋から春の間に勝負しなければなりませんが、日々のゴミ拾いも増加するばかりでなかなか手が回らないのが現状です。一応、各所のコミュニティ、関係部署の方達が回収するかもと思いつつ後回しになっていたのですが、私の知る限り過去一度も回収されたことはありません。

皆様の目にも入っていると思うので、放置しているのにも何かしらのご事情があるのだとお察し致します。

しかしながら、このまま放置しても結局は下流、または大分の海人が回収することになるのです。

海のゴミの70%は、川から流れだします。

「そんなの放っておけばよい」「あなた1人がやっても所詮・・・」「どうせいいつか流れていくから」「役所にやらせればいい」と言われることも多いのですが、『孤高のゴミ拾い人』にも事情があります。

見て見ぬふりはできません。

大多数の大分の皆様には興味のない話だと思うのですが、私はシーフード好きで海の向こうの世界で水の大切を知る機会も多かったので深刻に考えます。

山のチカラが川を伝い海に流れ込み、大分の海の幸を育ててくれのです。山がチカラを失い川が汚されている現状で、皆様が言うところの「大分の魚は美味しい!」は、いつまで続くことでしょう。少なくとも、未来永劫というわけにはいきませんね。

ゴミに絡まって死んでいる鳥を川で見かけることもあります。

大分川、海には行かせねぇよ。

全てをキレイに片すことはできず、「無駄なこと」と言われることもあるとは思いますが、「1個でも」という気持ちで向き合っています。

皆様のご理解とご協力をお願い致します。
プラスチックごみ、世界の海に26万9000トン 国際研究(2014)

世界の海は26万9000トン近くの大量のプラスチックごみであふれているとする、全世界の海洋状況を6年間にわたり調査した結果に基づく研究論文が、10日の米オンライン科学誌「プロスワン(PLOS ONE)」に掲載された。
プラスチックによる海洋汚染の調査・啓蒙活動を行う米NPO「ファイブ・ジャイルズ・インスティチュート(Five Gyres Institute)」などの研究チームによる調査結果は、沿岸付近を常に漂っている比較的大きなプラスチックごみが、海岸から遠く離れた沖で波に洗われて微粒子状になることを示している。

論文の主執筆者で、同NPOの研究部門を率いるマーカス・エリクセン(Marcus Eriksen)氏は、こうしてできる「マイクロプラスチック」は次に食物連鎖に侵入すると指摘する。

「5つの亜熱帯環流のただ中にあるごみの微小片は、世界の海を漂うプラスチックごみの『永眠の地』ではないことを、今回の結果は示している」とエリクセン氏は語る。「マイクロプラスチックの最終段階は、海洋生態系全体との相互作用だ」

6か国の研究者らからなる国際研究チームは、世界のプラスチックごみに関する従来の推定結果の改善を目指し、2007年~2013年の期間にオーストラリア沿岸、ベンガル湾(Bay of Bengal)、地中海(Mediterranean Sea)など世界各地で計24回の現地調査を実施。データを蓄積した。

マイクロプラスチックは網で収集され、サイズの大きな沿岸ごみは目視での調査が行われた。

この調査データを基に推計モデルを作成したところ、海洋全体に含まれるプラスチック微粒子は合計5兆2500億個以上に上り、総重量は26万9000トン近くに達する可能性があるとの推定結果が得られた。

エリクセン氏は、あらゆる場所でマイクロプラスチックを発見し、驚いたという。このことは、サイズの大きなプラスチック製品が環流によって実際に細かく砕かれ、海洋全体に拡散しやすい微粒子になっていることを示唆している。環流は大規模な渦状の循環する海流で、内部にごみが蓄積されている可能性がある。(AFP)
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ゴミ袋が絡まり助けられたイルカが嬉しそう飛び跳ねています。

アメリカでは、州・市レベルでプラスチック・バッグ(レジ袋)禁止の流れになっています。

アメリカ以外では、イングランド、メキシコ、インド、ミャンマー、バングラディッシュ、ルワンダ、オーストラリアで禁止されています。(自分の知る範囲)

ベルギー、アイルランド、スイス、ドイツでは、レジ袋税を導入。台湾は、2006年から3年間禁止しました。(自分の知る範囲)

私が拾って歩くルート上には沢山のレジ袋が散乱しており、大分の河川敷をデコレーションしています。

2年前にハワイがレジ袋禁止に踏み切ったのは、彼らの生命線である美しい海を守るためです。レジ袋が、ハワイの海を汚し、魚たちを傷つけます。
この町(自然)が崩れていく音が聴こえませんか?

聴く耳を養わないと聞こえませんよ。
聴こうという心がないと聞こえませんよ。

民の声も同じだと思います。

大分駅周辺だけが、大分市ではないです。

無駄と思われることでも一歩一歩。

無駄かどうかは、己の心の中に。

Blogを新たに開設しました

My Bag is マニラ封筒 今後とも宜しくお願い致します。