Friday, September 22, 2017

【2017.9.22】ブログ休止のお知らせ

突然ではありますが、『孤高歩記』の投稿を休止することにしました。

ポイ捨てゴミについての私見を公開で記すことについては、「もういいかな(enough)」と考えています。ポイ捨てゴミについては、ネガティブな事案なので内容もそれっぽくなってしまい、それについては疲労感と云いますか、書きながら自分の無力さと器の小ささを痛感し自己嫌悪になることが多くなってきました。

私のような若輩がゴミ拾いや登拝をしていると、何かと誤解されることも多く、「そうではないのですよ」ということを知って頂くという意図もありました。その誤解は、今年のはじめに大分合同新聞さんに取材をして頂き、ある程度理解していただくようになりました。年輩の方がこのブログを読むことは稀で、やはり大分においては、大分合同新聞さんの影響は大きく、昨日も「貴方、新聞の方よね(載っていた方よね)」と声を掛けて頂きました。「貴方の記事を切り抜いて貼ってるのよ」と云っ下さる方も何人か。自分の家族でさえ保管していないのに。

大分合同新聞社と書いて頂いた記者さんには感謝です。

今までの投稿を非公開にしようかと思ったのですが、いくつかセレクトして残しておきます。写真と積算距離数だけをSNSで公開することにしようか・・・どうしようか。

孤高シリーズで書き溜めたもの。
ブログ関係なく『孤高のゴミ拾い』『孤高の登拝』は変わらず続けていきますので、今後共宜しくお願い致します。
甲斐猛則
http://oitseaden.tumblr.com/post/165602642052/とりあえず今日からこちらで個人的なchit-chatを自分は誤字脱字

Saturday, May 27, 2017

西寒多神社: 豊臣秀吉関連古文書

豊臣秀吉直書状(直書)写

天皇の意を受けて、関白秀吉が大友氏と島津氏との和睦を勧告したもの。

日付、宛名はないが、これとほとんど本文が同じ文書が天正13年(1585)10月2日付けで秀吉から島津氏宛に出されている。

本文書は同日付で秀吉から大友宛に出された「惣無事令」の内容で、これを受けて大友宗麟が大坂城へ登城することになった。
豊臣秀吉書状(朱印状)案

敵方へ通じる豊後国侍の動きをうけ、秀吉が大友義統と仙石・長曾我部両氏に対して筑後への出兵をすぐにやめ、府内に軍勢を入れて上方の軍勢が来るまで少しも動かず守りを固めるように命じたもの。

あわせて、右馬頭(うまのかみ)こと毛利輝元に対しても同様に指示したことや、さらに先発隊として備前衆・淡路・阿波の国侍を派遣したことを伝えている。
豊臣秀吉書状写

3月1日の自らの出陣を伝え、今しばらくはむやみに動くことなく、城の守りを堅固にするよう指示した秀吉の書状。あわせて秘蔵の平釜の贈呈に対して感謝の意を伝えるとともに、その返却を伝えている。

日付、宛名はないが、秀吉の九州出陣及び将軍義輝から宗麟へ与えられた「平釜」の記事があることから、天正15年(1587)2月に宗麟宛に出された内容とみられる。

Friday, May 12, 2017

西寒多神社: 後藤碩田

後藤碩田は明治4年10月4日、西寒多神社主典に命じられた。碩田は号で、本名は真守。通称今四郎。碩田自筆の履歴書によると日田県別府表つまり別府支庁で主典を拝命したとなっている。この年の7月に廃藩置県が行われ、大分県などが成立したのだが、実質的に機能し始めたのは初代県知事(参事)森下景端が着任した5年1月以降で、それまでは慶応4年閏4月に発足した日田県がまだ機能していた。

主典は宮司や禰宜に次ぐ職階。後藤は西寒多神社主典を拝命と同時に姓を枚岡に変えた。後藤家は保元の乱の頃までは河内国枚岡神社の神職をしていて枚岡姓だったことから元に戻したのである。このため西寒多神社の保存文書には枚岡真守と記録されている。

後藤は6年に教導職十一級に補され、次いで同年7月に権禰宜に任じられ、同年中に中講義になった。更に13年には大講義に任じられた。

後藤は現在の大分市の乙津の豪商の家に生まれ、日出の帆足万里に漢学を学び、竹田の田能村竹田に師事して詩や画の研鑽に励んだ。更に中津の渡辺重名(重石丸)に国学を学んだ。若い頃から勤王家として活躍し、熊本の宮部鼎蔵や岡藩の小河一敏、更には長州の高杉晋作らと交わった。幕府による長州征討の際、長州藩主の命令を受けて九州諸藩の動静を探って報告し、褒賞を贈られた。後藤が西寒多神社主典に命じられた背景には明治新政府の中心勢力となった長州寄りだったことも影響しているものと見られる。

西寒多神社が国幣中社に列せられたのは、この後藤碩田の功績が大きかったと思われる。

なお、後藤は歴史を初めとする膨大な資料の収集に取り組み、500冊からなる『碩田叢史』をまとめた。その中には『寒多反古(一)(ニ)』があり、神道行政に関する資料や西寒多神社関係資料が含まれている。
碩学、後藤碩田の収集書籍

『碩田叢史』の『寒多反古』(一)(ニ)


『碩田叢史』は西寒多神社の主典や禰宜、教導職を務めたことがあり、碩学で知られる後藤碩田が出筆、あるいは古書を書き写した写本、収集した書籍の総称である。現在、その原本455冊が大分県立図書館に所蔵されている。また東京大学資料編纂所にもその一部の写本54冊が保存されている。

この『碩田叢史』は郷土史、日本史を研究する上で貴重な資料となっている。この中の『寒多反古(一)』『寒多反古(ニ)』は、後藤が西寒多神社の神職をしていた頃に出筆、あるいは保存・収集したと思われる神社、あるいは祭式、神道行政関係文書などをまとめている。

『寒多反古(一)』には第三大区(現在の大分市、由布市を中心とする地域)内の郷社と村社の名称と神官の名前、戸数などを列記したものや里楽規則、後に西寒多神社の権宮司になった城原八幡神社神官日野資計が著わした「祭儀根源」(上之巻)(下之巻)などからなっている。

『寒多反古(ニ)』は宣教師心得(本版本)や説教心得、西寒多神社教導小教院之一件、中教院御設置之場所見込入札、日要新聞、教会大意、天祖皇祖礼拝儀、神官奉務規則、中教院規則などからなっている。

これらの中には「明治六年西寒多神宮御達書」や「明治八、九年西寒多神社諸達」に含まれているものもあるが、当時の宣教使の心得や説教をする上での注意事項、礼拝の儀式などを知ることができる。

Saturday, May 6, 2017

西寒多神社: 災害

西寒多神社は、長い歴史に比較して大きな自然災害に見舞われることは少なかった。山の斜面という地形が幸いしたようだ。

明治15年(1882)8月21日、八幡田神幸所が強風のため倒壊、さらに七瀬川の洪水で消失した。同17年9月4日、本殿修築のため御遷座していた仮殿の屋根が暴風のため破損したため、夜中に神饌所に御遷座した。

同28年(1895)7月24日、八幡田神幸所の仮殿が26年に流失したため郷ノ城に設けていた仮殿が、大雨のため倒壊した。

同35年9月28日、台風で神殿背後の崖が崩れたり樹木が倒れるなどの被害が出た。

同40年2月10日早朝から降り出した雨はのちに雪に変わり、激しさを増した。境内の樹木が倒れるなどの被害で出た。11日も降雪がやまず、朝から予定していた紀元節の式典と遥拝式は雪掻きなどのため遅れた。

同41年8月10日、大雨が降って洪水。神庫と神楽殿の屋根の一部が壊れた。

同42年8月21日、境内の松の巨木が倒れ玉垣など12ヵ所に被害を受けた。

大正5年(1916)3月6日、地震があり建物が大きく揺れたが被害は不明。同8年7月23日、背後の山林に落雷があった。

昭和6年(1931)2月9、10日の両日、大雪が降り、10日朝には6寸(約18センチ)も積もった。9日夕方から境内の樹木が音を立てて折れたり曲がったが、被害はなかったようだ。同11月2日に地震が発生したが被害は生じなかった。

同16年10月1日、朝から大雨となり、禊川(現寒田川)が増水、車寄せ近くの玉垣や石垣が破損し大きな被害が出た。また、藤棚の一部が破損、境内の桜の木が一本倒れた。

同18年7月26日、御神庫の裏の崖が崩落したが幸い無事だった。同9月20日には暴風雨で境内の星差川(現西寒多川)に架かる裏参道の石橋ともう一つの橋が流失。藤棚の下の玉垣の大部分も流れた。また、表参道や萬年橋記念碑背後の石垣が寒田川の決壊で大きな被害を受けた。

同21年(1946)1月27日夕方、老松が大きな音を立てて倒れ、危うく鳥居や手水舎などが壊れるところだったが、わずかに免れて被害を受けずに済んだ

Friday, April 28, 2017

西寒多神社: 年間祭祀

【1月1日】歳旦祭
【2月1-3日】厄除け星祭
【3月15日】祈念大祭
【3月20日】本宮社春の大祭
【4月15日】例大祭
【4月29-5月3日】ふじまつり(講社祭・藤花祭)
【5月3日】大祭(引き続き育木祭)
【5月4日】戦没者慰霊祭
【5月5日】水神祭
【6月30日】大祓
【7月最後の日曜日】夏越祭
【9月23日】作祭
【10月20日】本宮社秋の大祭
【11月23日】新嘗大祭
【12月31日】大祓/除夜祭/古守札焼納祭
【毎月1日】月次祭
*********************************************
昭和7年(1932)発行『国幣中社西寒多神社略記』に記載されている祭祀(特殊神事除く)

【1月1日】歳旦祭(中祭)
【1月3日】元始祭(中祭)
【2月11日】紀元節祭(中祭)
【2月20日】新年祭(大祭)
【3月春分の日】春季皇霊祭遥拝式/繰生社春祭
【3月20日】本宮社祭
【4月自1日-至3日】神幸祭
【4月3日】神武天皇祭遥拝式
【4月6日】奨学祭(小祭)
【4月15日】例祭(大祭)
【4月29日】天長節(中祭)
【5月上旬】講社大祭(藤花祭)
【5月14日】列格記念祭(小祭)
【5月17日】厳島社例祭
【6月30日】大祓式/道饗祭(小祭)
【舊6月晦日】御祓祭(小祭)
【8月25日】天神社例祭
【8月秋分の日】秋季皇霊祭遥拝式/繰生社祭
【10月9日】合併者例祭
【10月17日】神嘗祭遥拝式/伊勢社秋祭
【10月20日】本宮社秋祭
【11月3日】明治節祭(中祭)
【11月22日】鎮魂債(中祭)
【11月25日】新嘗祭(大祭)
【12月25日】大正天皇祭遥拝式/煤祓式
【12月31日】大祓式/道饗祭(小祭)
【舊11月中卯月】卯月祭
【毎月1日】月旦祭(小祭)
【毎月15日】月次祭(小祭)/講社月次祭(小祭)/献詠祭(小祭)

Wednesday, April 26, 2017

西寒多神社: 歴代宮司

物集高世
就任年月日: 明治6年3月14日
退・転任年月日: 明治7年4月7日

田近陽一郎
就任年月日: 明治7年4月9日
退・転任年月日: 明治9年2月8日

湯谷基守
就任年月日: 明治9年3月17日
退・転任年月日: 明治10年12月18日

江藤正澄
就任年月日: 明治10年12月28日
退・転任年月日: 明治11年3月28日

宗六翁
就任年月日: 明治11年3月4日
退・転任年月日: 明治11年12月1日

村井泡
就任年月日: 明治11年12月19日
退・転任年月日: 明治15年6月3日

毛利登
就任年月日: 明治15年9月19日
退・転任年月日: 明治39年8月13日

金子長吾
就任年月日: 明治39年8月13日
退・転任年月日: 明治42年11月19日

遠山正雄
就任年月日: 明治42年12月1日
退・転任年月日: 大正3年4月18日

石上清治
就任年月日: 大正3年4月18日
退・転任年月日: 大正9年10月8日

後藤周治郎
就任年月日: 大正9年11月19日
退・転任年月日: 大正12年9月27日

久松信正
就任年月日: 大正12年9月28日
退・転任年月日: 昭和2年8月13日

長曾我部延男
就任年月日: 昭和2年8月13日
退・転任年月日: 昭和4年3月

松本浩通
就任年月日: 昭和4年3月5日
退・転任年月日: 昭和7年8月23日

上井廣𠀋
就任年月日: 昭和7年8月23日
退・転任年月日: 昭和20年12月8日

河野八百吉
就任年月日: 昭和21年6月24日
退・転任年月日: 昭和29年12月25日

小野新
就任年月日: 昭和29年12月25日
退・転任年月日: 昭和43年2月

村井昌
就任年月日: 昭和43年5月15日
退・転任年月日: 平成5年8月31日

玉井篤
就任年月日: 平成5年9月1日
退・転任年月日: 平成13年3月31日

縣好久
就任年月日: 平成13年4月1日

(写真: 昭和10年代)

西寒多神社: 氏子会

昭和21年(1946)2月に神社制度が廃止されたのに伴い、西寒多神社付属団体の豊後一宮講社を廃止せざるを得なくなった。それにともなって新たに氏子会を作ることになり、同年3月に氏子会規則を定めた。全文26条からなる規則の第2条は「本会は西寒多神社の隆昌を期し西寒多大神の御神徳を発揚顕現すると共に氏子恒例の祭祀神事を行うを以って目的とす」とその目的を定め、第3条で恒例の祭祀神事として例祭(4月15日)、祈念祭(2月20日)、新嘗祭(11月25日)、初卯祭を挙げている。


豊後一宮西寒多神社氏子會規則

第一條 本會ハ西寒多神社氏子ヲ以テ組織シ西寒多神社氏子會と称シ其ノ事務所ヲ西寒多神社々務所ニ置ク

第二條 本會ハ西寒多神社ノ隆昌を期シ西寒多大神ノ御神徳ヲ發揚顕現スルト共ニ氏子恒例ノ祭祀神事ヲ行フヲ以テ目的トス

第三條 本會ノ行フ西寒多神社氏子ノ恒例ノ祭祀神事ハ次ノ如シ

例祭四月十五日 祈念祭二月二十日
新嘗祭十一月二十五日 初卯祭 


第二章

第四條 本會々員ハ従前ノ西寒多神社氏子區域内ナル大分郡稙田村

(以下中略)

第六章 附則

第二十六條 本講社ハ昭和二十一年二月二日神社制度ノ廢止ニヨリ富然、国幣中社西寒多神社附属講社タル豊後国一宮講社規約モ改正ヲ要スルヲ以テ開發シコ丶ニ本規則ヲ制定シ神社法人登録済ノ日ヲ以テスルモノトス



豊後国一宮講社

大正13年(1924)3月13日、「崇敬者を結集して御神威を発揚する」ことを目的に豊後国一宮講社が設立された。主な事業は年一回講社大祭を厳かに実施し、祭典料を積み立てたり、各種品評会や講和会の開催を挙げている。

いずれにしても明治18年頃に結成されたと思われる一宮講社の改組と思われる。昭和16年の神祇院報告では、議員数は4,982人となっている。

(写真: 大正14年2月)

Monday, March 27, 2017

西寒多神社: 皇室・皇族との関係

大分県内で唯一、国幣中社に劣化された西寒多神社は皇室との関係が深く、皇室行事と関連した祭祀も執り行ってきた。また、皇族方のご参拝も多かった。


下馬下乗の立て札

明治9年(1876)11月、政府の宍戸璣教部大輔宛に皇族方の参拝に備えて下馬下乗の場所選定の伺い書を提出し、あわせて県庁にも同書の本省への進達を求めている。これは、明治7年に政府から下馬下乗の場所を設けるように、という指示を受けてのことである。

同書には略図が添えられていたようだが、残念ながら保存されていない。しかし、その文面から境内中央の石段下一ヵ所であることが推測される。実際、明治37年(1904)発行の『大分県社寺名勝図録』を見ると、拝殿前の階段下に「皇族下馬」「皇族下乗」の二本の立札が描かれている。


有栖川宮親王殿下来県

明治21年(1888)1月14日、有栖川熾仁親王殿下が熊本鎮台兵を検閲した帰途、大分県に立ち寄っている。有栖川殿下は明治15年9月に国典研究、神職養成のために設立された皇典講究所の総裁。

有栖川宮殿下は竹田から久住、野津原を経て大分に到着しているが、西寒多神社にも県から事前に連絡があり、打ち合わせのうえ14日に宮司が野津原で奉迎。さらに旅館に到着した有栖川宮殿下に名刺を差し出して拝謁した。有栖川宮殿下は翌15日、鶴崎で大野川に船を浮かべて鯉漁を御覧になったあと、随行の大佐を招魂社に代参させ、午後4時、菡萏港(西大分港)から船で別府に向かわれた。

なお、禰宜の矢野勘三郎は15日朝、県庁で有栖川宮殿下に拝謁した。矢野は文久2年、薩摩の島津久光(三郎)が兵を率いて上洛した際に随行して、褒められたことがあり、特別に拝謁を許されたのである。


明治天皇崩御

明治45年(1912)7月30日、明治天皇の病状が篤いことが伝わっていたが、午前0時43分崩御との告示が発せられたことが県庁から知らされた。また、皇太子殿下がただちに践祚し神器渡御式を行われ、即位して大正と改元したことも知らされた。

ただちに謹慎の姿勢を示し、神社としての対応を協議した。英照皇太后殿下崩御の際の達しを調べてみたが要領を得ず、とりあえず時報を廃したことが日記に記されている。当時、太鼓を叩いて時を知らせていたのであろう。

県庁から31日以後5日間歌舞音曲を停止し、国旗を掲げる時は上部に黒布を付け、竿頭の玉を黒布で包むように、との通達が届いた。宮司はこの日、村役場に出向いて不例中の国旗の立て方や弔意を表すための服装などを指導した。

8月1日、止めていた時報を再開。6日には県庁から官祭以外の祭典はいつもの通りに行っても差し支えないとの通達が県庁から届いた。

9月12日、地元村長らが来て明治天皇大喪遥拝式の準備を行い、13日の当日はまず神職が祓式をしたあと直ちに献饌。続いて奉悼詞を奏した後、村長が玉串奉奠、拝詞奉読。以後、参列者が順次玉串を奉奠して式を終えた。


大正天皇崩御位

大正4年(1915)11月10日、大正天皇が京都御所紫宸殿で御即位すると、西寒多神社でも御即位奉告祭を執り行った。


長慶天皇皇代御登列奉告祭

大正15年(1926)10月22日、宮中三殿で長慶天皇皇代御登列親告の儀が行われたため、西寒多神社でもこの日、境内の遥拝所で遥拝式を行った。そして同11月1日に東稙田村長や東稙田小学校校長(代理)、在郷軍人分会長、青年団長、寒田区長ら160人と村内の小学校の児童らが参列して御登列奉告祭を挙行。大分中学校の青井常太郎が2時間に亘って講演した。

長慶天皇は後村上天皇の息子で、名は寛成。応安元年・正平23年(1368)ごろ践祚した。足利方と徹底抗戦することを主張したが受け容れられず、永徳3年・弘和3年(1383)、和平派の推す弟の後亀山天皇に譲位した。江戸時代からその即位をめぐって意見が分かれていたが、大正15年に後村上天皇に続いて在位していたことが確認され皇統に列せられた。10月21日の官報で発表され、官国幣社以下神社で祭祀を行うよう達せられた。御登列奉告祭はこれに受けての儀式。


大正天皇の病気平癒祈願と大喪遥拝式

大正天皇は若い頃から御病弱であったが、大正15年12月に重体となられ、同17日、県庁から県下三神社に一斉に平癒の祈願を行うよう通知があった。このため西寒多神社では18日、地元村長や小学校長、在郷軍人会分会長、青年団長らが参列して平癒祈願を執り行った。

同24日、寒田区民全員が参拝し、区長の要望を受けて平癒祈願祭を挙行。午後から県の内務、警察、労務三部長も参拝した。大正天皇御危篤の電報が次々に到着し、その要旨を社頭に掲示して参拝者や氏子に知らせた。

同25日午前1時25分、大正天皇が崩御。その知らせは国民に知らされ、西寒多神社は宮司の名前で宮内庁に哀悼電報を打った。同日、改元し昭和となった。

昭和2年(1927)2月7日、大正天皇の御大喪の儀に合わせて境内の外の芝地で宮司以下全職員が参列して遥拝式を挙行した。東方正面に笹の付いた斎竹を立て、周囲を木綿垂付きの注連縄で囲んだ中央に薦を敷き、玉串台を置いて左右に炬松焼場の穴を掘るなどの式場づくりを行い、新宿御苑での喪場殿の儀に合わせて午後11時に宮司以下全員が参列。宮司が遥拝詞を奏し、玉串を奉奠。禰宜らも順次列拝して遥拝式を終えた。


昭和天皇の御結婚と皇太子(現天皇)の誕生

昭和天皇が皇太子だった大正14年(1924)1月26日に御結婚奉告祭を執り行った。昭和8年(1933)12月23日に皇太子殿下(現天皇)が誕生すると、翌24日、村長や小学校長、区長らが参拝して御降誕奉告祭を執り行った。皇太子殿下の御命名式が行われた。29日には西寒多神社にも多くの参拝者があった。


建武中興六百年祈年祭

昭和9年(1934)3月13日、東稙田小学校5年生以上の児童が参列し、建武中興六百年祭を執り行った。この日に合わせて在郷軍人や寒田区民が神苑や参道に桜や檜の苗木を植樹した。


皇紀二千六百年奉祝祭

昭和15年(1940)10月24日付けで県学務部長から宮司に対して紀元二千六百年式典当日の祭典に関する依命通牒が届いている。それには「十一月十日の紀元二千六百年式典は国を挙げて慶祝し奉るべき皇国の盛典なるを以って当日官国幣社以下神社に於いて寿詞を奏し寶祚の無窮と国運の隆昌とを祈請せしむべく今回内務大臣より訓令・・・・」と、氏子や崇敬者参列の下、盛大に祭典を執行するよう求めている。祭式や祝詞も決められており、浦安の舞を奉奏する場合は祝詞奏上の次とし、市町村が当日行う諸行事については別途国民精神総動員本部から市町村に出された通牒に基いて間違いのないように行うよう命じている。

11月10日午前10時から東稙田村村長や駐在巡査、小学校長、村会議員らが参列して奉祝祭(中祭)を執行。祭典後、竹中村の神楽が舞われる中、祝宴を催し、万歳を唱えた。


菊の御紋章

西寒多神社の建物には他の神社と異なり、菊の御紋章が数多く飾られている。この菊の御紋章の使用は当初、官幣社のみに許されていたが、明治7年(1874)に国幣社にも許可され、区別はなくなった。

昭和12年(1937)5月、内務省神社局長から「社殿工作物の菊御紋章使用に関する照会」が県を通じてあり、6月に回答している。それによると本殿234個、透塀109個、中門8個、拝殿57個、神饌所39個、神庫159個(瓦)、祭器庫(瓦)18個、外門32個、内構玉垣(瓦)4個の計656個となっている。


天皇陛下の姉、池田厚子神宮祭主が参拝

西寒多神社には戦後も皇室にゆかりのある方々が参拝しているが、最近では平成20年(2008)10月29日に、伊勢神宮の池田厚子祭主が参拝し、拝殿で玉串を奉奠した。

[Source: 御遷座六百年史]

Saturday, March 11, 2017

西寒多神社: 明治初期、大分県に怒られる(拝殿・神饌殿・神庫の建て替えの件)


西寒多神社は、明治4年(1871)に国幣中社に列せられたころは、神殿を初めとする各建物は古くてみすぼらしく、とうてい国幣中社の名に値するものではなかったようだ。神社側としては、対面の上からも国幣中社にふさわしい体裁を大急ぎで整えようとしたフシがうかがえる。そんな中で神殿は官費1,026円で新築されることになり、明治15年に建替えられた。

しかし、拝殿や神饌殿、神庫の建て替えまでは官費が出ないため、明治11年(1878)2月、当時の神官は費用の寄付を募ることにし、地方有力者に「迷惑はかけないから」と名義上だけの願主となってもらい、寄付集めを始めた。願主は拝殿が大分郡旦ノ原村の高山宇吉と同鴛野村の笠木勘三郎、神饌殿が大野郡百枝村の神田種嗣と同浅瀬村の神田住盛、神庫が大分郡寒田村の卜部尚連、佐藤七郎、佐藤清の3人である。この3人は神社と深い関係の家柄である。

各願主は形の上で、西寒多神社に対してそれぞれ拝殿(縦二間半、横四間半)、神饌殿(縦二間、横三間半)、神庫(縦二間、横三間)の新築寄進願いを出し、実際に寄付集めを始めた。神庫の場合、11年1月に桁行三間、梁行二間の瓦葺の建物を建てることになり、間もなく工事を始めた。5月には上棟式を行っており、あまり日数を置かないうちに完成したものとみられる。拝殿や神饌殿の工事は寄付金の集まり具合の関係からか、工事は遅れたようだ。

その後、県の担当者が工事状況を視察し、願主らに厳しく工事の遅れを指摘し、早めるように言い渡した。工事を仕上げるにはまだ500円ばかり不足で、それを集める目途も立たないことから、驚いた願主たちは17年(1884)7月、「話が違う」として別々に西寒多神社に対して寄進願いを取り下げる嘆願書を提出した。西寒多神社側は改めて全員連名の嘆願書を提出させ、添書きとともに県に提出し、以後、官費で工事を続けて完成してくれるよう要請した。

県から厳しい叱責を受けたが、結局、官費で工事を仕上げてくれることになり、同年8月、造営世話人佐藤綾太郎ら14人を仲立ちとしてほぼ出来上がっていた拝殿と神饌殿、神庫各1棟を引き取った。

以後、官費によって内部の造作や装飾が施されて完成した。ただし、神庫は途中で祭器庫に変更され、神庫は改めて新築されることになった。

[Source: 御遷座六百年史]

Thursday, March 9, 2017

西寒多神社: 国家神道の歩み(明治維新~太平洋戦争)

明治維新は、王政復古と祭政一致の精神に基く国家の樹立を目標とするものだった。その思想的中核は尊皇思想と神道思想であり、新政府樹立以前から「神武創業の古」に服するべく、神道を国教化しようという動きがあった。大政奉還、王政復古の数ヵ月後の慶応4年(明治元年/1868)3月、政府は神祇官の復興や「別当社僧復飾令」を初めとする一連の法令つまり「神仏分離の令」が布告され、神道による国民強化を強く打ち出した。祭政一致を実現するため律令時代にならって太政官とは別に神祇官を設けたのである。

この神仏分離令によって神社と寺院、神職と僧侶を完全に分離した。具体的には神職の世襲を禁止するとともに神宮寺や宮寺の建立や仏像を神体としてはならないこと、神仏習合的な祭神を禁止し、牛頭天王、菩薩、権現などの名称を神社の祭神として用いることができなくなった。また、神社で僧侶の外見をして別当や社僧と名乗っていたものは、還俗したうえで神主、社人として神社に奉仕するか、還俗しない者は神社を退去しなくてはならなくなった。

西寒多神社では江戸期、佐藤一族が歴代神主をつとめてきたが、これにより世襲が廃止され、外部から赴任してくることになった。

次いで明治2年(1869)7月、神祇官を太政官から独立させて、太政官の上に置いた。そして同10月に宣教師を神祇官に所属させ、神道の不況に当たらせた。同3年1月に「大教宣布」が出されて、「惟神の道」の強化が求められた。長年続いた神仏習合は仏教伝来とともに始まり、民間信仰レベルではまったく判然としないほど密接に結びついていた。

この一連の神仏分離政策で、民衆の行き過ぎた廃仏毀釈運動が広がり、政府は神職に対して廃仏を否定し、行き過ぎた運動を注意した。しかし、地方では地方官によって廃仏毀釈運動が進められ、多くの寺院や仏像が破却された。

明治4年(1871)5月14日、近代社格制度がスタートした。神社の国家管理を急速に進め、神社を「国家の宗祀」の場と位置づけ、神職の世襲を禁止し、主要神社神職の公務員化を推し進めたのである。更に、律令神祇制度を参考にして新たに神社制度を整備した。太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」によって、全国の神社を大きく官社と諸社に分けた。

この時、官社には97社が列格されたが、この官社は神祇官が祀る官幣社と地方長官が祀る国弊社に分けられ、いずれも大社、中社、小社に区分された。官幣社は天皇家にゆかりの深い神社が多く、国弊社にはかつての一宮、つまりその地方で特に尊崇されていた神社が多く含まれていた。両方の間に実質的に差異はなかったが、官幣社には例祭に皇室から幣帛料が出されたのに対して国弊社には政府から支出された。

また当初、菊の御紋は官幣社のみに許されていたが、明治7年に国幣社の社殿にも許可されるようになった。その翌年、これとは別に国難に際して勲功を立てた功臣を祭った神社を別格官幣社とする制度が導入された。

こうした近代社格制度によって大分県関係では西寒多神社のみが国幣中社に位置付けられた。九州で国幣中社に列格されたのは西寒多神社以外では佐賀県の田島神社と長崎県の住吉神社と海神神社の三社だった。また、宇佐神宮が別格官幣大社に列せられた。

官幣社、国幣社の名称は延喜式の社格を踏襲したものである。諸社は府社、県社、郷社および村社などからなっていた。府、県社、郷社は郷村の産土神社とされた。郷社の付属下に村落の氏神を置き、これを村社としたが、村社に至らなかったものは無各社となった。

同年8月、神祇官が廃止されて神祇省が設けられたが、翌5年3月にはその神祇省に代わって教部省が設置され、神道国教主義に基く国民強化のための統一的組織的な統括機関となった。この教部省は神官や僧侶を教導職に任命し、一大教化事業を開始した。教導職は、

第一条、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事

第二条、天理人道を明二スベキ事

第三条、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシム可キ事

という「教則三条」を奉じて教化活動すべきものとされた。西寒多神社にはその実物が保存されている。
大教宣布の機関として東京に大教院、地方に中教院が設置され、各神社には説教所が設けられて小教院とみなした。

神官は神社の祭祀を執り行うほか、国教である神道の不況に努めることが義務付けられていた。その神官についても祭主、大宮司、少宮司、禰宜、主典、官掌などの階級が設けられ、国家組織の中に組み込まれた。官国幣社の神官は当初を本官だったが、明治20年(1887)に待遇官吏となり神職と呼ぶようになった。しかし宮司1人と権宮司1人は奏任官待遇で、内務大臣の奏請により内閣において任命。禰宜1人と主典、官掌は判任待遇で地方長官(知事)が任命した。府県社や郷社の神職は氏子総代の推薦により地方長官が任命した。

大分県内では6年3月に僧侶24人が、次いで同年6月に神道側から西寒多神社禰宜首藤宗令(周三)ほか主要神社の神官、神職32人が長崎に招集されて指導をうけたのち教導職試補に命じられた。そして、神仏各宗合同で地域ごとに布教を始めた。

明治7年(1874)10月には現在の大分市の江雲寺に神道と仏教7宗派合同の教育機関として中教院を発足させた。院長6人、副院長11人で、そのうち西寒多神社の神官が院長に3人、副院長4人入っており、神道側の主導権のもとに運営されたことがわかる。

西寒多神社にも小教院が設置された。当時の見取り図を見ると、現在の神楽殿と厳島社の間に「小教院」の建物が描かれている。おそらく既存の建物を充てたものと思われる。しかし、神仏分離運動が進み、8年2月に大教院が解散したのに伴って中教院や小教院も解散した。
明治8年、式部寮によって「神社祭式」が制定された。これがいわゆる「明治祭式」で、官国幣社の祈念祭、新嘗祭、官国幣社列祭の祭式、祝詞、神饌について細かく規程した。また官国幣社がすべて行うものとして元始祭、後月輪東山陵(孝明天皇)遥拝、紀元節、畝傍山東山陵(神武天皇)遥拝、新嘗祭遥拝、仮殿遷座、本殿遷座が掲げられ、それぞれの祭式次第、祝詞などが詳細に定められた。参拝の作法「二拝二拍手一拝」が定められた。西寒多神社では同年7月に遥拝所の設置を申請して、11月に認められており、おそらくこの「神社祭式」の制定に対応したものと思われる。

教部省は明治10年(1877)1月まで存続したあと、新設の内務省社寺局に移管された。同15年には神官の教導職を廃止し、17年には官国幣社の神官が葬儀に関与することを禁じた。また、教派神道の神道事務局からの独立を認め、僧侶や神道各教派教師の任免や進退を全て各教派宗派の管長に委ねた。これらは神社神道を非宗教家するための体裁を整えるためだった。

明治20年(1887)3月、政府は7年にスタートさせた官国幣社経費定額制度を改めて官国幣社保存金制度を導入し、全官国幣社に対して向こう16年間一定額を交付し、その積立金を神社維持の資本金とさせ、15年後には幣帛料を除いて国庫からの支出を打ち切ることを予告した。この制度の変更が、西寒多神社の運営に実際にどのような影響を及ぼしたのかは不明である。西寒多神社にはこれらの経費と関係すると思われる次の文書が残されていう。


西寒多神社

明治十一年度神社経費金之義十年十二月第九拾壱号ヲ以神官ヲ廃シ更ニ祭主以下職員官等想定候ニ付テハ神官俸給及ヒ賜饌料其他減額可相成分ヲ除之外総テ同年五月第四拾弐号達之通相定候条成規ニ照準シ右ヲ以一周年ノ費額支辧可致旨太政官ヨリ被相達候条及達示候事

但本文減額ニ係ル文及大科目金流用ヲ要スル分ハ往復日数ヲ除ク之外七日限リ取調可差出来事

明治十一年五月九日

大分縣権令香川眞一 印


明治27年(1894)、官国幣社の祭祀が大祭と公式祭祀の2種類に分けられた。大祭は祈年祭、新嘗祭、例祭、臨時奉戴式、本殿遷座など、公式祭祀は原始祭、紀元節、大祓、遥拝式、仮殿遷座、神社由緒祭などで、大祭には勅使あるいは地方長官が参向して神饌幣帛料を供進することになった。これは祭祀大権は天皇の統治権の一つとの考えのもとに、それを勅使や地方長官に代替発動させるものだった。

明治後半の西寒多神社への勅使参向事例としては、明治22年2月21日の憲法発布奉告祭に県書記官関慎吾、37年2月24日の日露戦争宣戦奉告祭に県知事大久保利武、38年12月15日の平和克復奉告祭に県知事小倉久などがある。

明治27年、内務省訓令で祭祀区分が官国幣社の大祭と官国幣社の公式の祭祀、府県社以下神社の大祭及び公式の祭祀に3区分された。官国幣社の大祭は祈念祭、新嘗祭、例祭、臨時奉幣式、本殿遷座。公式の祭祀は原始祭、紀元節、大祓、遥拝式、仮殿遷座、神社に特別の由緒ある祭祀。府県社以下の神社はこれに準じる、とされた。

内務省社寺局は明治33年(1900)4月、神社局と宗教局に分かれ、神社行政は神社局、神道教派と仏教宗派は宗教局が担当するようになった。そこには神社神道は宗教ではない、との政府の立場が反映されており、「神社は国家施設」とされた。

明治39年(1906)、「官国幣社経費に関する法律」が定められ、それまでの保存金制度を解消して国庫から供進(補助)されるようになった。明治41年には「神社財産に関する件」という法律が公布され、全国の官幣社、国幣社の経費は国庫負担とし、府県社や郷社に対しても祭礼などにともなう費用は府県や市町村から支給されることになった。

これより前の39年8月、「神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する件」という勅令が出され、全国規模で神社の統廃合が始まった。有力な地方自治体の創出と並行して経費削減のため一町村一神社を目途に神社の統廃合を進めたのである。

大正2年(1913)には宗教局のみ文部省に移され、神社行政と宗教行政が完全に分離された。この年、官国幣社以下神社神職奉務規則と、事務手続きの集大成法と言える官国幣社以下神社の祭神、神社名、社格明細帳、境内、創立、移転、廃合、参拝、拝観、寄付金、講社、神札、などに関する件が公布された。

また翌3年には官国幣社以下神社祭祀令・同祭式が公布された。これにより神社祭祀は大祭、中祭、小祭に分けられた。具体的な区分は大祭が祈念祭、新嘗祭、例祭、遷座祭、臨時奉幣祭、靖国神社合祀祭。中祭が歳旦祭、原始祭、紀元節祭、天長節祭、神社に特別の由緒ある祭祀。小祭はそれ以外のものだが、その他諸と呼ばれるものもある。地鎮祭、起工式、七五三、祈雨祭、慰霊祭などがそれである。この祭祀区分は戦後、神社本庁の祭祀規程に継承され、各神社の参考にされている。

その後、昭和15年(1940)、皇紀2600年を機に内務省神社局は廃止されて、内務省の外局として神祇院が設置され、神社にかかわる独立した中央官庁が復活した。

[Source: 御遷座六百年史]

Tuesday, March 7, 2017

西寒多神社: 一ノ鳥居/ニノ鳥居/御神幸所

一ノ鳥居跡

大分市富岡459番地の5の地先(旧国道10号)冨岡街道に明治9年(1876)に建立された。

しかし、残存していないため、存在していたこと事態知らない人が増えている。

『大分の鳥居』(高原三郎著)によると、鳥居には毛利空桑書の「明徳及黎民 萬禾?惟聲」と書かれていた、とされるが、昭和30年1月に道路の拡幅舗装工事のため撤去された。そのため、大きさ形式などを確認できない。撤去された際、基石部分を引き取って保存している人がいると伝えられているが不明。
二ノ鳥居(下寒田)

一般には下寒田にある鳥居が一ノ鳥居と思われているが、それは一の鳥居が既に撤去されているためで、この鳥居は正確には二ノ鳥居である。

大正13年(1924)4月、瀧尾村の田崎延作と東稙田村の廣瀬柳太郎の寄進。同年1月、2人から「鳥居建替寄進願」が出されている。それによるとそれまであった木製の鳥居が腐朽して同12年夏に倒壊したため、鉄筋コンクリート製の鳥居に建替えて奉納したいと願い出ている。

工事は大正13年4月に完成し、5月13日、更に7月7日へと延期された。その理由は不明。当日は、東稙田村長首藤忠四郎や寒田区長操生堅太らが出席し、中祭に準じて祓式と奉告祭を行った。

設計書には、高さは「笠木上端迄二十七尺」「巾柱ノ真々 二十尺、地下六尺」「柱大サ直径 二尺」とある。建替え費用は、1,509円40銭。

実測は、高さ6.3メートル、幅5.4メートル。
八幡田御神幸所(頓宮)

現在は七瀬川の河川改修工事で河川敷となってなくなったが、大分市下宗方の八幡田地区に西寒多神社の御神幸所があった。神幸祭の折に神輿が行幸する場所だった。八幡田の地名そのものが西寒多神社や柞原神社との歴史的な関係を思わせるものである。一説には、かつては八幡殿と言っていた、との説もある。
八幡田は臼杵藩領で、青筵買い付けの会所が置かれていた。臼杵藩領に頓宮が営まれたのは、西寒多神社の神領があったためと推測されるが、裏付け資料はない。
明治8年(1875)12月、宮司田近陽一郎は大分県令森下景端に『頓宮地之儀ニ付願』を提出し、正式に西寒多神社の付属地として認めてくれるよう、図面を添えて上申している。

明治9年3月、この願いは認められ、改めて土地の丈量図面を県に提出している。それによると場所は八幡田河原で、広さは5反1畝16歩とある。

以後、4月15日の例祭にはこの八幡田河原の神幸所に行幸をすることになった。

しかし、神社所有地の明細書に記入漏れだったらしく、明治45年(1912)5月に改めて追加している。その面積は8畝とあり、明治8年の時よりかなり狭くなっている。

明治12年(1879)11月、八幡田神幸所に下宗方村の釘宮清衛の寄進により神殿と石灯篭、手水鉢が完成した。費用は279円37銭。しかし、15年8月21日の暴風雨で倒壊し、流失してしまった。その後まもなく仮殿が造宮されたようだが、明治26年1月にはそれを寒田川沿いの郷ノ城河原に移した。この時、釘宮清衛が寄進した石灯篭と手水鉢も移された。

明治12年から24年にかけて八幡田の御神幸は5日間ないし7日間催されていた。同24年4月26日の日記に「競馬賑ナリ凡馬二百頭許」とあり、大いに賑わっていたことがわかる。


郷ノ城御神幸所(お旅所

八幡田から郷ノ城河原に移した御神幸所の仮殿も明治28年(1895)7月24日に暴風雨のために転倒してしまった。

このため明治29年4月に再び新築した。同37年12月の神社明細書によると仮殿は桁行、梁行も三間の破風造りで、平屋の社務所(桁行三間、梁行一間五合)も建てた。一対の石灯篭と手水鉢は八幡田御神幸所から移した。

昭和12年(1937)3月、東稙田村長と寒田区長、田尻区長の3人が連名で、西寒多神社宮司に対して、村中央の田尻河原に神幸してくれるよう、変更願を提出している。その理由は、郷ノ城では場所が不便で参拝者が少なく、御神慮に申し訳ないため、としている。

田尻河原に行幸が行われたのは昭和12-13年の2年間に過ぎなかった。人々はその地を高見公園と呼んでいた。場所は田尻橋の南側の上流部の河原だった。その後、再び郷ノ城御神幸所に行幸するようになった。

しかし、昭和30年(1955)頃、同御神幸所の跡地を売却。寒田公民館をお旅所とした。

八幡田御神幸所から移された石灯篭と手水鉢などは、現在、寒田区公民館(お旅所)の敷地内に安置されている。
ドイツ人捕虜が参拝

第一次世界大戦で日本が戦ったドイツ人の捕虜141人が大正3年(1914)12月から7年8月まで大分市内の俘虜収容所(金池小画工内)に収容されていた。西寒多神社の記録を見ると、そのドイツ人捕虜が前後5回、西寒多神社を参拝している。最初は、大正4年10月13日で100人。2回目が、大正5年3月9日の80人で、参拝のあと稙田村木上の少林寺に向かった。平成19年にこの時の写真が見つかり、大分合同新聞に掲載された。

3度目は同5月5日で85人が参拝。12月19日の4度目には120人が参拝した。大正7年4月5日には120人の捕虜が楽隊に合わせてパレードしながら参拝し、境内各所に散らばって折詰弁当を食べ「学童ノ遠足ニ弁当ヲ開クニ髣髴タリ」という状況だった。

売店で洋酒を飲んだり果物を食べる姿は「恰モ活動写真ヲ見ルが如シ」だった。1人の捕虜が西寒多神社の絵葉書を見て喜び、友人に声をかけると大勢あつまってきて70組もの絵葉書が売れた、と記録されている。

[Source: 御遷座六百年史]
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一ノ鳥居は、肥後街道からの分岐点付近に建てられた。(肥後街道:  青ライン)

八幡田御神幸所も肥後街道の七瀬川の七ノ瀬地点である。

ドイツ人捕虜は、金池小学校から肥後街道を通り、一ノ鳥居をくぐって西寒多神社まで来たのではないか。その後、寒田村・田尻村を抜けて木上の少林寺へ。帰路は、肥後街道を歩いて戻ったと推測する。

昔からの旅人も肥後街道を外れ西寒多神社に参ってから木上付近で肥後街道に合流し、九重・阿蘇・熊本に向かったのかもしれない。

ただ、この辺りは細かく分藩されていたため、西寒多神社(延岡領)までパスポートなしで行けたのか否かは専門家に聞いてみないとわからない。
一ノ鳥居周辺と肥後街道沿いは、伊能忠敬よって測量されている。

第2次大分県下測量: 1810年12月18日~1811年1月13日
久住~(肥後街道を外れる)~竹田城下~堤(肥後街道)~今市~野津原~府内~別府~日出~山香~宇佐~中津~本耶馬溪~高瀬(福岡県)
野津原~府内間の記録を『伊能忠敬測量日記』より抜粋

【12.17】朝より晴天、六ツ後、野津原村出立、測量人は同前、同所より初め、枝恵良・胡麻鶴村字新開・枝廻洲、七瀬川巾二十一間、字三道、それより延岡領県(内藤亀之丞)木上村枝小柳・同口戸村枝田島・臼杵領稙田市村、それより延岡領粟野村・同領雄城村・臼杵領、下宗方村枝八幡田、七瀬川巾二十間、嶋原御宿預所光吉村まで側、二里〇八丁、測所打上げ、四十二間五尺六十〇間、それより仕越、光吉村と延岡領宮崎村まで測、七丁四十八間、合三里十七丁三十〇県五尺、九ツ前光吉村に引帰し着

止宿本陣嶋原御預所庄屋善左衛門、別宿組頭利平治

着後、嶋原御預所代官 井上清左衛門出る、府内惣年寄 渡辺久左衛門、泊宿 橋本屋八左衛門来る、熊本池部長十郎並びに手付四人足立津右衛門、此の所まで送り来たり、それにより坂部ノ方へ見舞に鶴崎へ行、この夜晴曇、測量

【12.18】朝より晴天、測者同前、六ツ後、光吉村出立、延岡領宮村より始め、延岡領当国当郡大庄屋清水作衛門、同所鴛野村庄屋安藤文吉、右領案内、西曲村津守村・片島村、それより府内領渡辺久左衛門案内、羽田村、下郡村・字六本松㊅印を残す、別手繋の為なり、由布川巾五十四間、府内城下(松平起之助居城)、字坊ヶ小路・東新町・塩九升(ショクセウ)町・米屋町・万屋町・蛭子町・稲荷町・下市町・中ノ町・檜物町・東上市町・京町・革屋町・桜町、止宿まで測る、午春(今年の春)残印に繋ぐ、一里三十二丁十九間一尺、岡宮村より始め、府内六本木一里〇六丁一十一間三尺、六本木印より府内止宿二十六丁〇間七四尺、四ツ後、府内城下桜町着止宿、同前橋本屋八右衛門

領界へ当所勘定方神屋幾治郎、代官小野代右衛門、書役芦苅満右衛門、町若年寄渡辺久左衛門出る、着後、町奉行増田茂太夫、郡奉行木戸庄右衛門、見舞に出る、この日、日出代官今村広作来る、この夜晴天測量、脇亭主酢屋平右衛門も付居る
光吉村での宿となった「庄屋善左衛門」邸の場所が気になっていたのだが、「伊能忠敬研究会」さんが公開したマップで判明した。

肥後街道と周辺寺社の位置関係で大体想像していた辺りだった。(七ノ瀬付近)
文久3年2月18日に勝海舟・坂本龍馬一行が肥後街道を通り七ノ瀬を渡り長崎に向かい、同4月9日七ノ瀬を反対方向に渡り鶴崎へ。

河川敷の竹藪で発見された歴史を感じさせる石碑があり、「ここは臼杵藩の端っこですよ」と記してある。
余談ではあるが、八幡田御神幸所跡地(周辺)と肥後街道も私の『孤高のゴミ拾い』ルートに入っており、毎日ゴミを拾っている。この地と先人へのリスペクトのつもりである。

Saturday, March 4, 2017

西寒多神社: 参道玉垣

昭和20年代初めまで寒田川に沿った路傍に玉垣があった。

玉垣が設置された時期は正確には分からないが、昭和11年の工事費支出簿に昭和11年2月から6月まで内渡金支払があり、総額1,472円50銭が支出されている。最後の支払いは6月2日になっているからこの時点で竣功したものとみてよい。

玉垣建設のために一宮講社では昭和10年12月から11年9月までに2,605円12銭の寄付金を募り、これを工事費に充てている。

終戦後、この玉垣は境内に移設されたが、その工事は昭和24年7月30日から8月2日にかけて石工による解体準備作業、9月18日から氏子が奉仕して行われた。

記録では移設場所は神饌所北側と回廊南となっている。現在、拝殿の東側に74本、回廊の西端に10本立っているのが、この時移設されたものであろう。平成19年に車椅子利用参拝者の参道を整備した際に、これまで放置していた石柱79本を参道脇(寒田川沿い)に建て直した。

石柱は大小2つのタイプがあり、それぞれ奉献者の住所氏名を刻んでおり、中には会社名のものもある。当初何本が建てられたかは不明。現在の石柱は163本、総延長は59.72メートルである。

163本の石柱のおおよその寸法は18センチ角で長さ77センチのものと、16.5センチ角で長さ70センチのものの2種類ある。

[Source: 御遷座六百年史]

Monday, February 27, 2017

西寒多神社: 鬼の歯形石

本宮山にまつわる次のような昔話に由来している。

ある時、太陽(天照)を祀る巫女の親と娘が本宮山にやってきて、毎日お祭りをしていた。隣の山、霊山に住んでいた鬼たちにとって、祭りの音は嫌なものだった。鬼は親や子を捕って喰おうとしたが、母親が霊山から本宮山まで一晩を橋を架けられたら食べられましょうと約束した。あともう少しで橋が完成という時、親子は手ミイを叩き、鶏の鳴きまねをした。鬼は朝が来たと思い、手に持った石を悔し紛れに嚙み砕いてしまった。

本宮山と霊山の谷合いに鬼達の歯形のついたという石が数多く見られる。
境内案内板の説

この石は、悪さをする鬼がいましたので村人達が鬼をこらしめる為に約束をさせました。それは、一夜で霊山を本宮山に橋をかけるようにと無理難題の約束でした。

ところが、鬼が頑張ってかけ終わりそうになったので氏子さんが一番鳥を早く鳴かせました。鬼はその為夜が明けたと思い、残念がって歯で石を投げました。最初は、他の地に投げたのですが、流行病が発生したのでこの西寒多の地に祭る。

本宮山の七不思議より

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KAI: 歯形から判断すると、鬼は相当デカい。

Sunday, February 26, 2017

西寒多神社: 『本宮社の森』(奥宮西寒多神の庭)

「本宮社の森」の植生について、大分市教育委員会が調査し、『大分市の文化財』にその報告書が掲載されているので、その主要部分を抜粋し転載する。
雲霧帯の性格をもった森

西寒多神社の奥の院にあたる本宮神社は、本宮山の標高550メートル付近の尾根に鎮座している。ここの境内林の植生調査結果を組成表(素表)に掲載した。この森はアカガシ、ウラジロガシ、アカシデ、タブノキ、ヒサカキの優先度が高い。

表6の常任度表と比較した結果、この森はアカガシ、ハイノキ、シキミ、ミヤマシキミの適合度が高く、これらを標微種とするアカガシ―ミヤマシキミ群集に同定できた。この群集は常緑広葉樹帯の上限付近に成立し、着生のシダ植物やコケ植物が多く雲霧帯の性格をもっている。アカガシの枝の幹の低い位置から伸びて風圧に強く、尾根や山頂に生育できる。
大分県では、宇佐神宮奥宮の院の御許山(647メートル)山頂の大元神社境内林(ここは御許山の山頂が御神体)、宇目町鷹鳥屋山(639メートル)の鷹鳥屋神社の境内林、日田市戸山(707メートル)の戸山神社の境内林、清川村御嶽山(560メートル)の御獄神社の境内林、緒方町大石樫山(宮尾国有林)などのアカガシ―ミヤマシキミ群集は範型となる森である。

大分市では、本宮社境内林のほかに霊山青年の家(現在は廃止)の上方にこの群集が広く残っている。また、高崎山北斜面・大谷東尾根の標高450メートル付近にこの群集の残存林がある。

西寒多神社: 『西寒多神社の森』

「西寒多神社の森」の植生について大分市教育委員会が調査し、その報告書が『大分市の文化財(第31集)』(昭和53年3月)に掲載されているので、その主要部分を抜粋し以下に転載する。

(1)森林の階層構造

西寒多神社の森の階層構造の概念図を図1に表した。森林はいろいろな植物が空間をうまく利用して、高木層、亜高木層、低木層、草本層、コケ層を形成し共同生活を営んでいる。歴史が古くて安定期に達した森は、階層構造がはっきり分化しているが、若い林や択伐などの人為攪乱があった林は低木層や亜高木層に陽樹が多く、階層構造が不明確になる。西寒多神社の森は階層構造がはっきりしており安定期に達している。

(2)組成と優先度

森林を構成している植物の被度を優占度で表すと、森林の姿がより明確になる。優占度は、表1の判定基準に従って6段階で表している。

高木層の優占種のイチイガシは、樹高15メートル~17メートル、調査面積250平方メートル中に9本生育しており、このうち胸高直径40センチ~70センチのものが6本あった被度は80%に達している。亜高木層はサカキとミミズバイ、低木層はイズセンリョウやアオキ、草本層はツルコウジの優占度がそれぞれ高い。西寒多神社の森を各階層の優占種で表すとイチイガシ―サカキ―イズセンリョウ―ツルコウジ分群集1)によく一致しており、筆者はイチイガシ群集と同定した。なお横浜国大の大野啓一氏は1996年、この林分をミミズバイ―スタジイ群集のムクノキ亜群集に同定している。この見解の違いについては、別の機会に論じることにして、ここでは慣用のイチイガシ群集を用いた。群集名は標微種ばかりでなく、立地の生態的特性を反映した相観を考慮して優占種を用いた方が理解しやすいと考えている。

(3)人為攪乱によるイチイガシ群集の退行

西寒多神社本殿の裏は小高い丘になっており、麓はイチイガシ群集、それを囲むように山腹はアラカシ林、尾根はアカマツ林、その周辺部は伐採されてタラノキ―ススキ群落になっている。本殿を中心に同心円状に広がっている植生の変化は、地形的な要因もあるが、それ以上に人為的要因が強く作用した結果と判断している。つまり、イチイガシ群集が人為干渉によって退行していく過程と考えてよい。

イチイガシ群集が人為によって退行すると、まずイチイガシ群集標微種のイチイガシ、ミミズバイ、イズセンリョウ、ツルコウジなどの標微種が姿を消して、代ってアラカシ、ヤブニッケイ、クロキ、ヒサカキ、などの優占度が高くなり、更にアカメガシワ、ヤマハゼ、ネムノキなどの陽樹が侵入してアラカシ―ジャノヒゲ群集へ退行する。人為干渉や低木層にネジキ、ヤマツツジ、コバノミツバツツジ、シャッシャンボなどツツジ科の植物、草本層にウラジロ、コシダ、コウヤボウキを伴ったアカマツ―ヤマツツジ群集へ退行する。また、コナラ、ヤマハゼ、ネムノキ、アカメガシワ、イヌビワ、ヤブムラサキなど、陽樹の優占度はますます高くなる。

しかし、クロキ、ヒサカキ、アラカシなどの常緑広葉樹は、この群集においても高い優占度を維持しており、人為干渉が少なくなるとコナラ―クヌギ群集を経てアラカシジャノヒゲ群集が復元する。コナラ―クヌギ群落に対して遷移が進まない程度に人為干渉が続いている状態が里山林である。なお頻繁に伐採する人為干渉が過度に加わると、ススキやクズなどススキ群団の植物やヌルデ、タラノキ、ナガバモミジイチゴなどを伴った先駆的植物群落へ退行していく。

Saturday, February 25, 2017

西寒多神社: 国幣中社列格の経緯

西寒多神社が国幣中社に列せられた経緯については詳しいことは判明していない。ただ各種資料に後藤碩田(本名: 後藤今四郎)の働きがあった、という記述がみられる。後藤碩田は、明治4年(1871)10月に西寒多神社の主典になり、後に権禰宜も務めた人物だが、歴史や国学、漢字などに通じて博学を以って鳴り、それ以前から西寒多神社とは接点があったようだ。

江戸時代に歴代西寒多神社の神主を務めた佐藤家の歴史を綴った『佐藤家の事績』の第6代佐藤孝兵衛藤原尚能の項に、西寒多神社の国幣中社列格の経緯に触れた次のような記述がある。

ロ、西寒多神社國幣中社列格二努力ス 佐藤秀男氏ノ談ニヨレハ「西寒多神社カ國幣中社ニ列セラレタノハ明治四年六月デアル、當時直入郡城原村ノ神官日野資計カ大分郡乙津村ノ後藤今四郎(碩田ト號ス)」ト協力シテ時ノ太政官、神祇官ニ申請シタモノデ日野資計ハ其レ迄ハ、西寒多神社ハ大野郡野津郡荘寒田ニアルモノトミ思ッテ居タガ申請ノタメ上京途中鶴崎ニ於テ碩田カラ、東稙田ノ今ノ神社カ本社テアルコトヲ教ヘラレ上京ヲ中止シテ寒田在ノ今ノ神社ヲ實地に調査シテ申請シタノテアル」ト

此調査ノ際案内役ハ佐藤孝兵衛等カ主トシテ之レニ任シタノテアル即チ神社ノ模様等ハ孝兵衛等ノ努力ニヨッテ一段ノ荘厳味ヲ加ヘ史實モ亦的確ニ示サレ茲ニ國幣中社列格申請ヲ決定セラレタ次第テアル

因ニ後藤碩田ハ維新ノ勤王家ニシテ大分郡桃園村乙津ニ生レ明治四年西寒多神社主典トナリ枚岡乃ト称セリ後藤今四郎ト云ヒシ時代ハ岡藩(竹田藩)ノ用達富豪ナリシト又畫聖竹田ノ高弟ナリ、後、西寒多神社禰宜ニ任ラレタ人、詳細ハ昭和十年大分縣人傳ニアリ西寒多神社カ國幣中社ニ列格セシ時ノ宮司ハ杵築町ノ人、物集高世(物集高見博士ノ父)権宮司ハ清原宣道(画号ヲ無暦ト云フ)禰宜近藤弘紀、首藤周造、権禰宜加藤賢成、野村綱紀、主典安東敏雄、枚岡乃、卜部志保理、城原村日野資計ナリ

これを読むと当時、直入郡城原村の城原八幡社神官日野資計と後藤碩田が協力して時の太政官、神祇官に申請したのだという。日野はそれまで西寒多神社は大野郡野津荘寒田にあるもの(この地にも西寒田神社あり)とい思っていたが、申請のため上京する途中、鶴崎で後藤から東稙田の今の神社が本社であることを教えられた。日野は上京を中止して西寒多神社を実地調査した。この時、佐藤孝兵衛らが詳しく案内したとされ、日野はこの調査に基づいて列格申請した、と記している。尚、日野は後に西寒多神社や禰宜を務めている。
また西寒多神社の初代宮司物集高世の人物を紹介した『物集高世』(奥田秀・編著)で、物集が西寒多神社宮司になる経緯を既述した部分に「西寒多神社は、神官枚岡真守(後藤碩田のこと)の努力が実って、国幣中社に成ったものの・・・」という一文がある。編著者の奥田は後藤がどのような努力をしたのか具体的に記述していないが、このことからも後藤が大きな役割を果たしたことは間違いなかったものと見られる。

国幣中社列格が明治4年6月であることから、日野や後藤らの列格申請は明治3年後半から明治4年春頃までのことと思われる。この頃は、廃藩置県以前でまだ旧藩が存在していた。藩がそのまま県に置き換えられたのは4年7月で、更にそれらの県を統合して大分県や小倉県ができたのは11月である。初代大分県参事森下景端が府内(大分)に着任して統治を治めたのは翌5年1月以降である。つまり国幣中社に列せられた当時の西寒多神社のある地域はまだ延岡藩の枝領だったのである。

一方、天領(幕府領)だった日田は慶応4年(明治元年)4月に日田県となり、同6月に松方正義が知事として赴任してきた。松方は明治3年10月に日田を離れるが、その前後から日田や府内で一揆が起き、翌4年3月頃ようやく収束した。西寒多神社の初期の神職に且つて勤皇家として活躍した日田県役所の役人がいることや、後藤碩田のように日田県から任命された者もいることを考えると、日田県からの何らかの働きかけがあったとも考えられる。

いずにれしても西寒多神社が『延喜式神名帳』にその名が記載されていたことが大きく作用しており、日野や後藤らの列格申請の大きな根拠になったことは十分推測できる。ただこの場合でも豊後の六座が記載されており、その中から西寒多神社が国幣中社に選ばれたのは、やはり日野や後藤らの積極的な働きかけがあったからと思われる。

西寒多神社: 社格と神階

西寒多神社は、昭和20年まで国幣中社の中格が与えられていた。これは、明治4年(1871)5月14日、太政官布告によって定められたものである。

社格は、「延喜式神名帳」の中に出てくるようにいろんな形式で用いられてきたが、昭和20年の敗戦後、国家神道が廃されたのに伴って社格制度も廃止され、別表神社に指定された。このため西寒多神社の最新の社格ということになれば、太政官布告による国幣中社ということになる。

太政官布告では国家自らが経営する神社を官社、それ以外の神社を諸社と称した。官社には官幣大社、官幣中社、官幣小社と国幣大社、国幣中社、国幣小社があった。そして官弊社には例祭に際して皇室から、国弊社には国庫から幣帛料が神社に供進されていた。

ちなみに諸社には府・県社、郷社、村社の4つがあり、これ以外に無格社があった。また、この他に歴史上の人物を祀った別格官幣大社があった。

西寒多神社はまた「豊後一ノ宮」という社格を与えられていた。この「一ノ宮」とか「二ノ宮」という社格の表現は歴史が古く、10世紀頃から行われてきた。国司等がその国の有力な神社を巡拝する時の順位をしめしたもので、時代によって異なることも多い。

諸国一ノ官表を見ると、同じ国に一ノ宮が複数あった所がかなりある。九州では豊後と備前に複数の一ノ宮があった。豊後では西寒多神社と柞原八幡宮に「豊後一ノ宮」の社格を与えられていた。但し、古代、中世の古文書や古記録には西寒多神社を「豊後一之宮」とする記録は見えず、資料的に立証できない。

西寒多神社が「一ノ宮」を称するようになった背景としては『大日本一宮記』に
と記されたことや、寛文4年(1664)白井宗因の『神社便覧』に豊葺原一宮御事として「西寒多神社 豊後大分郡」とあること、更に延宝4年(1676)霜月下二日付けの橘三喜誌す『一宮巡詣之願主記』に
と記されていることなどが影響したとの説がある。


神階

神階は、諸神に奉授した位階で、資料の上で最初に登場したのは天武天皇元年(672年)7月である。この神階が授与されたのは9世紀に集中しており、これらの中には式内社に組織されていない神社が400社近くある。時の権力者が神階を授ける目的は、在地の富豪層を背景に新たに成長してきた神祇を、時の権力者つまり国家が掌握すると共に、国家につなぎとめておくことにあった、とされる。

式内社の数は神名帳に登載された当時、3,132座あり、このうち豊後には次の6座あった。

大分郡西寒多神社(大分市寒田に鎮座)

直入郡建男霜凝日子神社(竹田市神原に鎮座)

速水郡宇奈岐日女神社(由布市湯布院町川北に鎮座)

火男火賣神社二座(別府市鶴見に鎮座)

海部郡早吸日女神社(大分市関に鎮座)


これらは、9世紀半ば以降に神階を授けられている。この中で西寒多神社は最も遅く神階を授けられている。しかし、「延喜式神名帳」に「大分郡一座名神大社西寒多神社」とあり、国幣大社、つまり国司が祭る神として記載された。『類聚三代格』によると、嘉祥3年(850)に出された太政官符はそれまでの神階に一階加え、無位の神社には六位を授けるよう命じ、大社や名神社で無位のものは直ちに従五位下を授けるよう命じている。。

更にその翌年、従五位を授けられた神以外は全て正六位にするよう命じている。これによると嘉祥4年以前の神社で無位の神はいないことになるが、『日本三大実録』貞観11年(869)3月22日条に西寒多神社は無位から従五位を授けられている。このことから類推すると西寒多神社の創建は嘉祥4年(851)以降、貞観11年以前ということになる。

また西寒多神社が、短期間のうちに社格を上昇させた背景には、周辺地域の開発が進んで力を付けてきた富豪層を国家機構に組み込もうとする中央政府の思惑を指摘する見方がある。つまり、もともと西寒多神社は寒田川と敷戸川の流域を開発した富豪層と、それに率いられた農民が祀った神で、9世紀初頭から九州を襲った凶作と飢饉の際に富豪層が貧窮農民を率いてこの地域の開発を進め力を付けてきた。このため中央政府は在地の神を国家の神祇体制の中に組み込み、それによって地方の富豪層を従わせる方策をとったのだ、との見方が強い。(『大分市史(上)』)

Friday, February 24, 2017

西寒多神社: 三代実録

西寒多神社の名前が初めて記録に登場するは貞観11年(869)のことで、『三代実録』という歴史書にこの年の3月に当時神階を持たなかった西寒多神社に「従五位下」の位が与えられたことが書かれている。しかし、10世紀に出された「延喜式神名帳」以後、歴史資料に登場せず、詳しい歴史はわかっていない。享保3年(1718)に神主の佐藤家長が著した『豊後国一宮西寒多神社之略記』には、建久8年(1197)に大友氏の初代能直から神領の寄進を受けて以来、代々の大友氏から安堵を受けたこと、薩摩の島津氏が豊後まで攻め込んできた際に神殿が破壊されたが、大友義統が再興したこと、などが記されている。

『神祇志料』によると、弘安8年(1285)に「神田二百四十六町」とあるが、これは由(柞)原宮の神田のこととされ、「豊後国図田帳」には見えない。また、享和3年(1803)に編纂の『豊後国志』には西寒多神社を深く信仰していた大友氏10代の親世が応永15年(1408)に居館に近い現在地に社殿を移したと伝えられており、このことから鎌倉・室町時代を通じて大友氏と密接な関係が続き、庇護を受けてきたものと推測される。

『大日本国一宮記』に西寒多神社(号大分宮。箱崎同体也。又、名 柞原八幡)豊後大分郡」と記され、寛文4年(1664)白井宗因の『神社便覧』には豊葦原一宮御事として「西寒多神社 豊後大分郡」とある。延宝4年(1676)霜月下二日付けの橘三喜の『一宮巡詣之願主記』には「一国一宮巡詣之時、過 豊之後州寒田村 拝 西寒多大明神」と記される。

西寒多神社のある寒田地区は、且つては豊後国大分郡早田荘の一部で、寛永11年(1634)松平忠昭領、万治元年(1658)幕府領となり高松代官の支配を受けた。寛文5年(1665)、肥後熊本藩の領地となったが、一年後、再び幕府領に戻った。天和2年(1682)日田藩松平直矩領、貞享3年(1686)には三度幕府領となったが、正徳2年(1712)日向の牧野延岡藩の領地となった。

延享4年(1747)、牧野氏が転封となり、内藤氏が入封してからも延岡藩の領地が続いた。延岡藩は、初め山津に役所を置いて豊後各地の枝領を治めたが、後に千歳に役所を移した。西寒多神社はこの役所の支配を受けた。歴代の延岡藩主の尊崇を受けたのもこのためである。

延岡が明治2年(1867)に行った神社取調では代々の領主から境内地の年貢を免除されていたようで、内藤氏の時代には蔵米から三十石が寄進されていた。この神社取調書によると、境内には本社(神殿)、拝殿、神楽殿、御炊殿、神子屋、本地堂などがあり、このうち本地堂を取り除いたことが記載されている。恐らく前年3月に出された神仏分離令とそれによって巻き起こった廃仏毀釈運動に関連した対応と思われる。

廃仏毀釈運動に関して言えば、『大分郡志』に「社僧は霊山也」との記述がある。社僧とは、神社や神宮寺に属して、仏事を修する僧侶のことで、霊山(九嶷山)中腹の飛来山霊山寺と歴史的に密接な関係があったことが推測されるが、それを示す文書は全く残されていない。慶應4年(1868)3月17日に神祇事務局が発した「別当社僧復飾令」など一連の法令による「神仏分離令」や同28日の「仏教色撤去令」によって廃仏毀釈運動が巻き起こった際に、意図的には破却されたことも十分考えられる。

延岡藩の神社取調書には各建物の大きさが書かれている。その内容と明治6年から8年まで権宮司を務めた清原宣道が描いた「西寒多神社形容姿勢図」が、完全に一致するので、その信憑性は高い。
旧宮大工家の建築記録には、慶長14年(1609)寒田一宮が再興されたことが記されている。

このうち棟札が現存するのは延享3年の分のみで、略記のほか旧宮大工の建築記録にも残っている。略記に記載されていないが、弘化4年(1847)には、神楽殿の再建が行われており、その時の棟札が残されている。

一方、旧宮大工家に伝わる「建築記録」によると、宝暦8年(1758)に西寒多神社の屋根が「カネ(銅板)葺」になったことが記されており、形容姿勢図の神殿の銅板葺きは、この時になされたことも考えられる。しかし、明治以降の記録では神殿の屋根は、檜皮葺に替えられたのかもしれない。略記よると2年後の宝暦10年(1760)に神殿が改築されたとしている。

この旧宮大工家の建築記録には、文化4年(1807)に寒田一宮の鳥居が建てられた、とある。

[Source: 御遷座六百年史]

Thursday, February 23, 2017

西寒多神社: 御祭神の変遷

西寒多神社の祭神は、本来は当地域の住民から神として尊崇され、大切に祭られた産土神(うぶすなかみ)であったものと思われる。産土神とは、生まれた土地の守り神、あるいは村の鎮守、氏神様のことである。現在は主祭神を「西寒多大神(天照皇大御神)」と統一表記しているが、これは長い歴史の中で、時代の変遷に伴って変化した結果であろう。

西寒多大神が、この地域の産土神であることは、西南の背後に聳える本宮山の山頂に旧祠があることからも裏付けられる。山の名前自体がそれを物語っており、山頂の旧祠の近くには巨石があり、その近くには泉が沸いていて、かつては祭祀を執り行っていたという伝承もある。言い換えれば、この本宮山を神体山として自然発生的に成立した神社であろうと思われる。古来、人々はこの自然発生的な産土神に五穀豊穣や家内安全、国家平穏など素朴な祈りを捧げてきたのである。

神階授受や延喜式の記載を見ると、西寒多神社が主祭神とされており、平安時代初期までは西寒多神が主祭神であったことが分かる。しかし、そこにいつ頃から天照大御神など天皇家の祖先神が入ってきたかは、はっきりとはわからない。

『西寒多神社縁起』(天正3年[575]に旧記を書写したものを、元禄14年[1701]に平松利重という人物が再度書写表装して奉納したもの。安永十年[1781]に神主の藤原尚伴がまた移したと記している)によると、応神天皇の勅によって武内宿禰が西寒多山に最初に祀った神は三座で、正面が天照大御神、左相殿が月読尊、右相殿が天忍穂耳尊だったという。

その後、西寒多神社が衰退して久しい頃、今度は中臣鎌足の夢枕に武内宿禰が立って神社再興を命じたので、天智2年(662)西寒多川の上流に社殿を建てた、とある。その時に祀った神は神功皇后、応神天皇、武内宿禰の三座で、上代に祀った三神をこの時に改めた、となっている。このように永い歴史に中で、祭神の座を天照大御神など天皇家の祖先神や八幡信仰の祭神、藤原氏の祖先神などが占めるようになったのであろう。

しかし、祭神がいつ頃どのような変遷を辿ったかは不明で、推測する以外にない。天正3年(1575)以降、安永10年(1781)頃は八幡神の時代だったと思われる。更に遡れば14世紀の中頃(南北朝初期)には、既に八幡神を祀っていた可能性がある。

江戸時代にまとめられた『豊後志』(著書、年代不詳)には「西寒多神社 在碩田郡 祭神三座 神功皇后 応神天皇 武内宿禰」とあり、西寒多神の名前はない。

幕末の頃は八幡神ではなく、天照大御神に戻っていたことは、明治2年(1869)の『神社明細牒』からもわかる。同書によると、祭神は大日ルメ命(天照大御神の別名)、月読命、天忍穂耳命の三神で、相殿は品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、足仲彦命(仲哀天皇)となっている。

明治以降も主祭神の変遷は続いたことがうかがえる。

明治32年(1899)6月21日付けの大分県内務部長丸山重俊が、西寒多神社宮司毛利登に出した次の通牒によると、西寒多神社が前年10月に内務大臣に対して祭神を応神天皇に変更したいと建議したことがわかる。しかし、その理由が明確でなかったのか、それは認められず、従来通り西寒多神社を祭神として唱えるよう求められている。

客年十月西寒多神社祭神決定ノ件内務大臣へ建議の候處今般右建議ノ事由ノミニテハ未タ其祭神ヲ応神天皇ト訂正スルニ付従来ノ通西寒多神社ト唱ヘ置カル方可然段其筋ヨリ通牒有之候条此段及御移牒候也

内務部長

明治三十二年六月二十一日

大分縣書記官丸山重俊

西寒多神社宮司毛利登殿


しかし、明治37年12月に内務省に提出した神社明細の控には西寒多神社は消えて次のようになっている。

本殿

月讀尊
天照大御神
天忍穂耳尊

相殿

應神天皇
神功皇后
武内宿禰

殿内所在諸神

大直日神
神直日神
天児屋根神
伊弉許大神
 大年神
 倉稲魂神
 天思兼神
 経津主神
 誉田別尊
 軻遇突智大神
 伊弉冊大神

これに基づいて明治44年(1911)11月に大分県内務部長川口彦治からの祭神中配祀の神名等の調査報告要請に対して次のような文書を提出している。


本月十四日庶第ニ九八七号ノ一ヲ以テ御照會二相成候事項左之ニ候也

明治四十四年十一月二十六日

西寒多神社宮司 遠山正雄

内務部長

大分縣事務官 川口彦治殿


配祀ノ神名(明治三十七年十二月附ヲ以テ内務省へ進達セシ當社明細書控ニヨル)

本殿

月讀尊
天照大御神
天忍穂耳尊

相殿

應神天皇
神功皇后
武内宿禰

殿内所在諸神

大直日神
神直日神
天児屋根神
伊弉諾尊
大年神
倉稲魂神
天思兼神
経津主神
譽田別尊
軻遇突智神
伊弉冊尊

配祀ノ年月日

コレハ凬ク不明ニ帰シタルモノ、如ク近時大ニ研究調査ニ苦心スルモ別ニ徴証トスベキモノサヘモ発見セズ


この祭神名は、大正10年(1921)12月に提出した神社明細帳にも同じように記載されている。

しかし、昭和7年(1932)発行の『国幣中社西寒多神社略記』では「祭神西寒多大神一座を 社殿にては天照大神」としており、同十三年版の『神道大辞典』も「西寒多神を主神とし、月読尊、天忍穂耳尊、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、大直日神、天児屋根命、伊弉冊尊、大歳神、倉稲魂神、天思兼神、経津主神、軻遇突知大神、を記す。但し社殿によれば主神は天照皇大神であるという」となっている。

戦後の改訂版も「主神西寒多大神は天照大神にましますといわれ」という書き方をしており、現在の「主祭神 西寒多大神(天照皇大御神)」に至っている。

[Source: 御遷座六百年史]

【2017.9.22】ブログ休止のお知らせ

突然ではありますが、『孤高歩記』の投稿を休止することにしました。 ポイ捨てゴミについての私見を公開で記すことについては、「もういいかな(enough)」と考えています。ポイ捨てゴミについては、ネガティブな事案なので内容もそれっぽくなってしまい、それについては疲労感と云いま...