天皇の意を受けて、関白秀吉が大友氏と島津氏との和睦を勧告したもの。
日付、宛名はないが、これとほとんど本文が同じ文書が天正13年(1585)10月2日付けで秀吉から島津氏宛に出されている。
本文書は同日付で秀吉から大友宛に出された「惣無事令」の内容で、これを受けて大友宗麟が大坂城へ登城することになった。
豊臣秀吉書状(朱印状)案
敵方へ通じる豊後国侍の動きをうけ、秀吉が大友義統と仙石・長曾我部両氏に対して筑後への出兵をすぐにやめ、府内に軍勢を入れて上方の軍勢が来るまで少しも動かず守りを固めるように命じたもの。
あわせて、右馬頭(うまのかみ)こと毛利輝元に対しても同様に指示したことや、さらに先発隊として備前衆・淡路・阿波の国侍を派遣したことを伝えている。
豊臣秀吉書状写
3月1日の自らの出陣を伝え、今しばらくはむやみに動くことなく、城の守りを堅固にするよう指示した秀吉の書状。あわせて秘蔵の平釜の贈呈に対して感謝の意を伝えるとともに、その返却を伝えている。
日付、宛名はないが、秀吉の九州出陣及び将軍義輝から宗麟へ与えられた「平釜」の記事があることから、天正15年(1587)2月に宗麟宛に出された内容とみられる。
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