西寒多神社は、明治4年(1871)に国幣中社に列せられたころは、神殿を初めとする各建物は古くてみすぼらしく、とうてい国幣中社の名に値するものではなかったようだ。神社側としては、対面の上からも国幣中社にふさわしい体裁を大急ぎで整えようとしたフシがうかがえる。そんな中で神殿は官費1,026円で新築されることになり、明治15年に建替えられた。
しかし、拝殿や神饌殿、神庫の建て替えまでは官費が出ないため、明治11年(1878)2月、当時の神官は費用の寄付を募ることにし、地方有力者に「迷惑はかけないから」と名義上だけの願主となってもらい、寄付集めを始めた。願主は拝殿が大分郡旦ノ原村の高山宇吉と同鴛野村の笠木勘三郎、神饌殿が大野郡百枝村の神田種嗣と同浅瀬村の神田住盛、神庫が大分郡寒田村の卜部尚連、佐藤七郎、佐藤清の3人である。この3人は神社と深い関係の家柄である。
各願主は形の上で、西寒多神社に対してそれぞれ拝殿(縦二間半、横四間半)、神饌殿(縦二間、横三間半)、神庫(縦二間、横三間)の新築寄進願いを出し、実際に寄付集めを始めた。神庫の場合、11年1月に桁行三間、梁行二間の瓦葺の建物を建てることになり、間もなく工事を始めた。5月には上棟式を行っており、あまり日数を置かないうちに完成したものとみられる。拝殿や神饌殿の工事は寄付金の集まり具合の関係からか、工事は遅れたようだ。
その後、県の担当者が工事状況を視察し、願主らに厳しく工事の遅れを指摘し、早めるように言い渡した。工事を仕上げるにはまだ500円ばかり不足で、それを集める目途も立たないことから、驚いた願主たちは17年(1884)7月、「話が違う」として別々に西寒多神社に対して寄進願いを取り下げる嘆願書を提出した。西寒多神社側は改めて全員連名の嘆願書を提出させ、添書きとともに県に提出し、以後、官費で工事を続けて完成してくれるよう要請した。
県から厳しい叱責を受けたが、結局、官費で工事を仕上げてくれることになり、同年8月、造営世話人佐藤綾太郎ら14人を仲立ちとしてほぼ出来上がっていた拝殿と神饌殿、神庫各1棟を引き取った。
以後、官費によって内部の造作や装飾が施されて完成した。ただし、神庫は途中で祭器庫に変更され、神庫は改めて新築されることになった。
[Source: 御遷座六百年史]
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