江戸時代に歴代西寒多神社の神主を務めた佐藤家の歴史を綴った『佐藤家の事績』の第6代佐藤孝兵衛藤原尚能の項に、西寒多神社の国幣中社列格の経緯に触れた次のような記述がある。
ロ、西寒多神社國幣中社列格二努力ス 佐藤秀男氏ノ談ニヨレハ「西寒多神社カ國幣中社ニ列セラレタノハ明治四年六月デアル、當時直入郡城原村ノ神官日野資計カ大分郡乙津村ノ後藤今四郎(碩田ト號ス)」ト協力シテ時ノ太政官、神祇官ニ申請シタモノデ日野資計ハ其レ迄ハ、西寒多神社ハ大野郡野津郡荘寒田ニアルモノトミ思ッテ居タガ申請ノタメ上京途中鶴崎ニ於テ碩田カラ、東稙田ノ今ノ神社カ本社テアルコトヲ教ヘラレ上京ヲ中止シテ寒田在ノ今ノ神社ヲ實地に調査シテ申請シタノテアル」ト
此調査ノ際案内役ハ佐藤孝兵衛等カ主トシテ之レニ任シタノテアル即チ神社ノ模様等ハ孝兵衛等ノ努力ニヨッテ一段ノ荘厳味ヲ加ヘ史實モ亦的確ニ示サレ茲ニ國幣中社列格申請ヲ決定セラレタ次第テアル
因ニ後藤碩田ハ維新ノ勤王家ニシテ大分郡桃園村乙津ニ生レ明治四年西寒多神社主典トナリ枚岡乃ト称セリ後藤今四郎ト云ヒシ時代ハ岡藩(竹田藩)ノ用達富豪ナリシト又畫聖竹田ノ高弟ナリ、後、西寒多神社禰宜ニ任ラレタ人、詳細ハ昭和十年大分縣人傳ニアリ西寒多神社カ國幣中社ニ列格セシ時ノ宮司ハ杵築町ノ人、物集高世(物集高見博士ノ父)権宮司ハ清原宣道(画号ヲ無暦ト云フ)禰宜近藤弘紀、首藤周造、権禰宜加藤賢成、野村綱紀、主典安東敏雄、枚岡乃、卜部志保理、城原村日野資計ナリ
これを読むと当時、直入郡城原村の城原八幡社神官日野資計と後藤碩田が協力して時の太政官、神祇官に申請したのだという。日野はそれまで西寒多神社は大野郡野津荘寒田にあるもの(この地にも西寒田神社あり)とい思っていたが、申請のため上京する途中、鶴崎で後藤から東稙田の今の神社が本社であることを教えられた。日野は上京を中止して西寒多神社を実地調査した。この時、佐藤孝兵衛らが詳しく案内したとされ、日野はこの調査に基づいて列格申請した、と記している。尚、日野は後に西寒多神社や禰宜を務めている。
また西寒多神社の初代宮司物集高世の人物を紹介した『物集高世』(奥田秀・編著)で、物集が西寒多神社宮司になる経緯を既述した部分に「西寒多神社は、神官枚岡真守(後藤碩田のこと)の努力が実って、国幣中社に成ったものの・・・」という一文がある。編著者の奥田は後藤がどのような努力をしたのか具体的に記述していないが、このことからも後藤が大きな役割を果たしたことは間違いなかったものと見られる。
国幣中社列格が明治4年6月であることから、日野や後藤らの列格申請は明治3年後半から明治4年春頃までのことと思われる。この頃は、廃藩置県以前でまだ旧藩が存在していた。藩がそのまま県に置き換えられたのは4年7月で、更にそれらの県を統合して大分県や小倉県ができたのは11月である。初代大分県参事森下景端が府内(大分)に着任して統治を治めたのは翌5年1月以降である。つまり国幣中社に列せられた当時の西寒多神社のある地域はまだ延岡藩の枝領だったのである。
一方、天領(幕府領)だった日田は慶応4年(明治元年)4月に日田県となり、同6月に松方正義が知事として赴任してきた。松方は明治3年10月に日田を離れるが、その前後から日田や府内で一揆が起き、翌4年3月頃ようやく収束した。西寒多神社の初期の神職に且つて勤皇家として活躍した日田県役所の役人がいることや、後藤碩田のように日田県から任命された者もいることを考えると、日田県からの何らかの働きかけがあったとも考えられる。
いずにれしても西寒多神社が『延喜式神名帳』にその名が記載されていたことが大きく作用しており、日野や後藤らの列格申請の大きな根拠になったことは十分推測できる。ただこの場合でも豊後の六座が記載されており、その中から西寒多神社が国幣中社に選ばれたのは、やはり日野や後藤らの積極的な働きかけがあったからと思われる。
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