Saturday, June 3, 2017

終活【2017.6.3】孤高のゴミ拾い: 22,266 km/13,835 mi

ゴミ拾い道中に会う老犬にとってシンドイ季節がやってきました。ぜいぜい言いながら牛歩で近寄ってきて尻尾をひとふり。

リハビリウォーキングをしている人生の大先輩達にとっても厳しい季節がやってきました。
老年は、私たちの生涯のひとつの段階であり、ほかのすべての段階とおなじように、その特有の顔、特有の雰囲気と温度、特有の喜びと苦悩をもつ。 
私たち白髪の老人は、私たちよりも若いすべての仲間たちと同じように、私たち老人の存在に意義を与える使命をもつ。 
ベッドに寝ていて、この世からの呼びかけがもうほとんど届かない重病の人や、瀕死の人も、彼の使命をもち、重要なこと、必要なことを遂行しなければならない。 
年をとっていることは、若いことと同じように美しく神聖な使命である。 
死ぬことを学ぶことと、死ぬことは、あらゆるほかのはたらきと同様に価値の高いはたらきであるーーそれがすべての生命の意義と神聖さに対する畏敬をもって遂行されることが前提であるけども。 
老人であることや、白髪になることや、死に近づくことをただ厭い、恐れる老人は、その人生段階の品位ある代表者ではない。 
自分の職業と毎日の労働を嫌い、それから逃れようとする若くたくましい人間が、若い世代の品位ある代表者でないのと同様に。
~ヘルマン・ヘッセ『人は成熟するにつれて若くなる』より ~

私はまだ老年ではありませんが、何事に対しても常に「明日は我が身」と思うようにしています。人生に折り返しもなく、足が動かなくなるまで「道」(タオ)を歩き続けるだけです。

いつも通りに元気に家を出て、元気に家に帰ってこられない人のニュースを毎日見聞きします。最後に交わした言葉は何だったのだろう。最後の晩餐は何だったのだろう。最後に聴いた音楽は。やり残したことは沢山あったはず。

なにより「いってきます」といつも通りに家を出た時、自分が帰ってこられないことなど考えもしなかったでしょう。

「いってきます」とは「行って帰って来る」という宣言なので、必ず帰ってこなければならないのです。子供達にそのことはキチンと教えて頂きたいです。

明日は我が身。終活は老年だけのものではないです。
「よそのこと(国)のことは言えんなぁ。日本も落ちたもんやな・・・」

私のゴミ拾い道中にお会いする方達が、嘆きと諦めが入り混じった薄い苦笑いを浮かべておっしゃいます。

明日も明後日も一歩一歩拾い続けるだけです。

ひとつ拾ってひとつ反省。ひとつ拾ってひとつ感謝。

私の若年終活のひとつです。
皆様のご理解とご協力をお願い致します。

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