Saturday, May 27, 2017

西寒多神社: 豊臣秀吉関連古文書

豊臣秀吉直書状(直書)写

天皇の意を受けて、関白秀吉が大友氏と島津氏との和睦を勧告したもの。

日付、宛名はないが、これとほとんど本文が同じ文書が天正13年(1585)10月2日付けで秀吉から島津氏宛に出されている。

本文書は同日付で秀吉から大友宛に出された「惣無事令」の内容で、これを受けて大友宗麟が大坂城へ登城することになった。
豊臣秀吉書状(朱印状)案

敵方へ通じる豊後国侍の動きをうけ、秀吉が大友義統と仙石・長曾我部両氏に対して筑後への出兵をすぐにやめ、府内に軍勢を入れて上方の軍勢が来るまで少しも動かず守りを固めるように命じたもの。

あわせて、右馬頭(うまのかみ)こと毛利輝元に対しても同様に指示したことや、さらに先発隊として備前衆・淡路・阿波の国侍を派遣したことを伝えている。
豊臣秀吉書状写

3月1日の自らの出陣を伝え、今しばらくはむやみに動くことなく、城の守りを堅固にするよう指示した秀吉の書状。あわせて秘蔵の平釜の贈呈に対して感謝の意を伝えるとともに、その返却を伝えている。

日付、宛名はないが、秀吉の九州出陣及び将軍義輝から宗麟へ与えられた「平釜」の記事があることから、天正15年(1587)2月に宗麟宛に出された内容とみられる。

Tuesday, May 23, 2017

本末転倒の町【2017.5.24】孤高のゴミ拾い: 22,119 km/13,744 mi

ツバメちゃん達が巣立ってしまいました。空っぽの巣を見るのは寂しいです。もしかしたら第2陣が子育てにやって来るかもしれません。
飲み食いしたゴミ、男性の衣類や下着、女性の下着やストッキングが散乱していました。使用済みの避妊具も散乱していました。ここだけの、今日だけの話ではありません。赤ちゃんのオムツもよく捨てられます。
今まで「大分市のスラム化」について何度も書いてきました。スラム街と言えば、外国のオドロオドロシイ街をイメージすると思いますが、大分市のスラム化は表には見えない所で着々と進み、そのスピードは加速しています。

通学路で使用済みの避妊具や女性の下着が捨てられているなど、外国のスラム街でもあまり見ない光景です。

更に問題なのは、大分市民がそのことに気付いていないということ、見て見ぬふりをしてはいけない人達が知らんふりをしているということです。認めたくない人達も多くいるのでしょう。

「一時期の話」「一部分の話」と云う人達がいます。だから私は盆正月関係なく毎日、1日15 km/10ほどのコミュニティを拾い歩いているのです。

ゴミを拾って22,000 kmの道中で多くの人生の大先輩方に道徳論を拝聴しました。昨日も書きましたが、大分新聞さんに取材していただいてから大分以外の方からも沢山のメッセージを頂戴し、その多くが道徳についてです。

私は道徳を語れるレベルの人間ではなく、皆様の「道徳がなってない」というご指摘は、そのまま私に対しての叱咤であると受け止めています。

道徳論の多くは、「今の若いもんは」「考え方が古い」というような年齢ギャップの埋まらない水掛け論になってしまいます。

人生の大先輩が云う所の「若いもん」というのは私の世代であり、私の世代の云う所の「若いもん」は20-30代のことでしょう。

人生の大先輩方が私の世代の「若いもん」に話をすると、「自分達には自分達の考え方ある」「なぜ、若いもんがやらなければならないんだ。年寄りができるなら年寄りがやればいい」と云うのだと。

そして、我々世代は「若いもん」に対して「ゆとりだからできない」と云い、彼らに「ゆとりでしょ? そう言うあなたは バブルでしょ?」と反撃されてしまうのだ。

「貴方はどうお考えですか?」と意見を求められます。

私は「できるもんがやればよい」と思っています。ゴミを拾える者が拾えばよいと。問題は、私の世代に「拾えるもんがいない」ということなんです。口ばっかり達者で足が動かないバブル末期世代です。その世代が高いポジションにつき、その子供達が主戦力となっている現状で、今以上に期待できることはないです。人生の先輩方にもイロイロなご意見の方がいらっしゃいますし、無関心・見て見ぬふりの人も少なくはないです。

この町のゴミを22,000 km拾いながらこの町を勉強し観察してきました。

ポイ捨てゴミの問題は、ゴミだけの問題でないことがわかりました。

「足元のゴミひとつ拾えぬほどの人間に、何ができましょうか。」(鍵山秀三郎)の意味がよくわかりました。

机の下のゴミを拾い歩くことで、
「人間の心は、そう簡単に磨けるものではありません。ましてや、心を取り出して磨くことなどということはできません。心を磨くには、とりあえず、目の前に見える物を磨ききれいにすることです。とくに、人のいやがるトイレをきれいにすると、心も美しくなる。人は、いつも見ているものに心も似てきます。」(鍵山秀三郎)
の意味もよくわかるようになりました。

そして、この町のシステムが本末転倒であることにも。

『本』は、本学のことであり人として必要な学問。
『末』は、末学のことであり生きていくために必要な学問。経済・IT・英語など。

本学が背骨であり、末学が筋肉なのです。本学あっての末学であり、それがひっくり返ってしまう状況が本末転倒なのです。
できる人間がやればよいのですが、やれる人間がいないのです。目立つことばかり、楽しいことばかり、楽なことばかりではなく、「誰かがやらなければならない」ことがあるということは皆様ご理解されていると思うのですが、性根の部分で動けないのです。

人間の性根というのはそう簡単に変わるものではないのですが、性善説で性根に期待し続けてきた結果がこの有様です。現状が当たり前の世代にとっては、「別にいいやん」ということなのかもしれません。

アメリカ風の言葉で云うと、「豚に歌を教えようとしてはいけない。それは無駄なことであるし、豚も迷惑だ。」です。

考え方を変えなければ。このままの状態では、スラム化のスピードは更に速くなり取り返しのつかないことになってしまいます。一見キレイに見える家でも床下をみればシロアリだらけなのです。ポイ捨てゴミは社会の縮図です。これからも机の上だけを片しますか?

この地は、子孫からの預かりものです。夢いっぱいの若い世代、元気いっぱいの子供ちゃん達、ヨタヨタ歩き始めたちっこい子供ちゃん達、生まれたての赤ちゃん、これから生まれる新しい命に今以上の負を背負わせるおつもりか?

誰が本気なんだ?

猛省と自戒。
What is moral is what you feel good after, and what is immoral is what you feel bad after.
( 道徳的なことは後から気持ち良く、不道徳なことは後で気分が悪い)
~アーネスト・ヘミングウェイ~

皆様にとって興味のないことであることは承知で、皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Friday, May 12, 2017

西寒多神社: 後藤碩田

後藤碩田は明治4年10月4日、西寒多神社主典に命じられた。碩田は号で、本名は真守。通称今四郎。碩田自筆の履歴書によると日田県別府表つまり別府支庁で主典を拝命したとなっている。この年の7月に廃藩置県が行われ、大分県などが成立したのだが、実質的に機能し始めたのは初代県知事(参事)森下景端が着任した5年1月以降で、それまでは慶応4年閏4月に発足した日田県がまだ機能していた。

主典は宮司や禰宜に次ぐ職階。後藤は西寒多神社主典を拝命と同時に姓を枚岡に変えた。後藤家は保元の乱の頃までは河内国枚岡神社の神職をしていて枚岡姓だったことから元に戻したのである。このため西寒多神社の保存文書には枚岡真守と記録されている。

後藤は6年に教導職十一級に補され、次いで同年7月に権禰宜に任じられ、同年中に中講義になった。更に13年には大講義に任じられた。

後藤は現在の大分市の乙津の豪商の家に生まれ、日出の帆足万里に漢学を学び、竹田の田能村竹田に師事して詩や画の研鑽に励んだ。更に中津の渡辺重名(重石丸)に国学を学んだ。若い頃から勤王家として活躍し、熊本の宮部鼎蔵や岡藩の小河一敏、更には長州の高杉晋作らと交わった。幕府による長州征討の際、長州藩主の命令を受けて九州諸藩の動静を探って報告し、褒賞を贈られた。後藤が西寒多神社主典に命じられた背景には明治新政府の中心勢力となった長州寄りだったことも影響しているものと見られる。

西寒多神社が国幣中社に列せられたのは、この後藤碩田の功績が大きかったと思われる。

なお、後藤は歴史を初めとする膨大な資料の収集に取り組み、500冊からなる『碩田叢史』をまとめた。その中には『寒多反古(一)(ニ)』があり、神道行政に関する資料や西寒多神社関係資料が含まれている。
碩学、後藤碩田の収集書籍

『碩田叢史』の『寒多反古』(一)(ニ)


『碩田叢史』は西寒多神社の主典や禰宜、教導職を務めたことがあり、碩学で知られる後藤碩田が出筆、あるいは古書を書き写した写本、収集した書籍の総称である。現在、その原本455冊が大分県立図書館に所蔵されている。また東京大学資料編纂所にもその一部の写本54冊が保存されている。

この『碩田叢史』は郷土史、日本史を研究する上で貴重な資料となっている。この中の『寒多反古(一)』『寒多反古(ニ)』は、後藤が西寒多神社の神職をしていた頃に出筆、あるいは保存・収集したと思われる神社、あるいは祭式、神道行政関係文書などをまとめている。

『寒多反古(一)』には第三大区(現在の大分市、由布市を中心とする地域)内の郷社と村社の名称と神官の名前、戸数などを列記したものや里楽規則、後に西寒多神社の権宮司になった城原八幡神社神官日野資計が著わした「祭儀根源」(上之巻)(下之巻)などからなっている。

『寒多反古(ニ)』は宣教師心得(本版本)や説教心得、西寒多神社教導小教院之一件、中教院御設置之場所見込入札、日要新聞、教会大意、天祖皇祖礼拝儀、神官奉務規則、中教院規則などからなっている。

これらの中には「明治六年西寒多神宮御達書」や「明治八、九年西寒多神社諸達」に含まれているものもあるが、当時の宣教使の心得や説教をする上での注意事項、礼拝の儀式などを知ることができる。

Saturday, May 6, 2017

西寒多神社: 災害

西寒多神社は、長い歴史に比較して大きな自然災害に見舞われることは少なかった。山の斜面という地形が幸いしたようだ。

明治15年(1882)8月21日、八幡田神幸所が強風のため倒壊、さらに七瀬川の洪水で消失した。同17年9月4日、本殿修築のため御遷座していた仮殿の屋根が暴風のため破損したため、夜中に神饌所に御遷座した。

同28年(1895)7月24日、八幡田神幸所の仮殿が26年に流失したため郷ノ城に設けていた仮殿が、大雨のため倒壊した。

同35年9月28日、台風で神殿背後の崖が崩れたり樹木が倒れるなどの被害が出た。

同40年2月10日早朝から降り出した雨はのちに雪に変わり、激しさを増した。境内の樹木が倒れるなどの被害で出た。11日も降雪がやまず、朝から予定していた紀元節の式典と遥拝式は雪掻きなどのため遅れた。

同41年8月10日、大雨が降って洪水。神庫と神楽殿の屋根の一部が壊れた。

同42年8月21日、境内の松の巨木が倒れ玉垣など12ヵ所に被害を受けた。

大正5年(1916)3月6日、地震があり建物が大きく揺れたが被害は不明。同8年7月23日、背後の山林に落雷があった。

昭和6年(1931)2月9、10日の両日、大雪が降り、10日朝には6寸(約18センチ)も積もった。9日夕方から境内の樹木が音を立てて折れたり曲がったが、被害はなかったようだ。同11月2日に地震が発生したが被害は生じなかった。

同16年10月1日、朝から大雨となり、禊川(現寒田川)が増水、車寄せ近くの玉垣や石垣が破損し大きな被害が出た。また、藤棚の一部が破損、境内の桜の木が一本倒れた。

同18年7月26日、御神庫の裏の崖が崩落したが幸い無事だった。同9月20日には暴風雨で境内の星差川(現西寒多川)に架かる裏参道の石橋ともう一つの橋が流失。藤棚の下の玉垣の大部分も流れた。また、表参道や萬年橋記念碑背後の石垣が寒田川の決壊で大きな被害を受けた。

同21年(1946)1月27日夕方、老松が大きな音を立てて倒れ、危うく鳥居や手水舎などが壊れるところだったが、わずかに免れて被害を受けずに済んだ

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